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村上春樹 『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』2/2

 世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』は村上春樹版 カフカの『城』である、という人もいるに違いない。
 カフカの『城』には、読み続けることが困難になる 「とりつく島のなさ」 がある。城の役人が城下の人に対して過酷なことをするわけではない。にもかかわらず、読者は 「城」が感じさせる 「とりつく島のなさ」 のために、おもわず本を投げつけたくなってしまうような怒りに駆られる。
 城の役人も、その下っ端も、仕事もせずに威張り散らすだけという意味で、住民に屈辱感を与えるわけではない。 意識や身体に屈辱を味わわされれば、それは (とくにヨーロッパ民族のあいだでは) 反抗という行動への足がかりになる。 そうではなくて、「とりつく島のなさの不快感」の根源には、そうした反抗心さえも一切奪ってしまう「壁」がある。 カフカが描いた 『城』は、「自分たちが今ここにあることの意味」を不明にしてしまうような圧倒的に高い「世界システムの壁」である。
 世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』上巻172ページあたりで、「僕」の隣人である大佐が語る 「高い壁に囲まれた 世界の終りの街」は、カフカの『城』で描写される伯爵府そのままである。
 p172
 記憶あるいは心という、自分そのものでもある「自分の影」を引き剥がされた後の僕 :  「いろいろ質問ばかりしてすみません。しかし僕は世界の終りというこの街について何も知らないし、面食らうことばかりなんです。街がどういう機構で動いているのか、どうしてあんな高い壁があるのか、なぜ毎日一角獣が出入りするのか、ぼくがここで仕事として読まねばならない「古い夢」とは何なのか、どれ一つとして僕には理解できない」
 「世界の終りの街」 の退役軍人である立派な人物の大佐 :  「口では説明できないこともあるし、説明してはならん筋合いのこともある。しかし君は何も心配することはないんだ。この街はある意味では公平だ。いいかね、ここは完全な街なのだ。完全ということは、何もかもがシステムとしてそろっているということだ。
 「君はこれからそれをひとつひとつ自分の手で学び取っていかねばならない。この街のシステムを有効に理解できなければ、ここには何もないということになるだろう。 物心ついてからの記憶をすべて剥がされ、記憶の総体である心も剥がされたのだから、君は完全な無の街に住むことになるだろう。 このことをよく覚えておきなさい。心がわずかに残っている今のうちに、目を開き、耳を澄ませ、頭を働かせ、世界の終りの街の提示するものの意味を読み取るんだよ。
 「遠い昔、ここに来たばかりだったころだった私にも覚えがあるよ。心や記憶が自分の影という形で残っていた当初は、以前のものと これからのもののバランスがうまく取れないんだ。だから迷う。しかし、新しい歯が揃えば、古い歯のことは忘れられるものだ・・・・・」
 「心がこの街では消えるということですか」、と僕が聞いても、大佐は「ここしばらくは、君にとっては一番つらい時期なんだ」としか答えてくれない。
 下巻262ページ付近には、夢読みの仕事を手伝う女性を救い出したい「僕」と、僕から引き剥がされた「影」の、「システム=完全な街」 についてのやり取りがある。
 「影」: 中途半端に心の残った君は、彼女をこの街から連れ出すことはできない。 なぜなら彼女は完全だからだ。つまり心がないんだ。 完全な人間だけがこの街に住むんだ。だから君が彼女を連れて、この街から逃げても、意味がない。
 「僕」: 人々がこの街で引き剥がされた心はどこに行くんだい?
 「影」: だって君は夢読みなんだろう? なのにそれを知らないのか? じゃあ教えてやる。影を引き剥がす時にいっしょに剥がされた心は、一角獣によって壁の外に運び出されるんだ。 獣は人々の心を吸収し回収し、それを外の世界に持って行ってしまう。 そして冬が来るとそんな自我を体の中にため込んだまま、死んでいくんだ。
 「影」はさらに続ける : 彼らを殺すのは、冬の寒さでもなく、食糧の不足でもない。 彼らを殺すのは、我々の街が押し付けた自我の重みなんだ。 そして春が来ると、新しい獣が生まれる。 死んだ獣の数だけ新しい子供が生まれるんだ。 そしてその子供たちも成長すると、この街にきた人間の自我を背負って、同じように死んでいくんだ。 それがこの街の完全さの代償なんだ。
 
 ・・・・・・・・・、『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』には、どのフレーズひとつとして、輪郭のはっきりした教訓は含まれていない。しかし、この恐ろしいインスピレーションに満ちた物語を読み終わったとき、大東京の地下数十メートルには確かに世界の終りがあり、新宿・渋谷・南青山の楽しいハードボイルド・ワンダーランドには、夜になると直径一メートルの穴がいくつも口を開けることが冷え冷えと伝わってくる。