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マイケル・ギルモア 『心臓を貫かれて』 (文春文庫)1/2

 ノーマン・メイラーの大ベストセラーでありピューリッツアー賞受賞作にもなった『死刑執行人の歌』と同じ題材を、死刑囚本人ゲーリー・ギルモアの末弟マイケル・ギルモアがノンフィクションにまとめたものである。ノーマン・メイラーの『死刑執行人の歌』と同じく、この作品も全米でセンセーションを巻き起こしたが、話題になった理由は死刑囚ゲーリー・ギルモアの犯行が残虐だったからではない。事件自体にはトルーマン・カポーティの『冷血』のような異常性はない。ゲーリー・ギルモアが注目を浴びたのは、当時のアメリカの死刑反対の潮流の中で自分から弁護士を通じて死刑執行を嘆願し、それも絞首刑ではなく銃殺刑によって、アメリカの大地を血で汚す(あるいは清める)ようメディアに訴えたからである。
 二人は(年齢は大きく離れているが)実の兄弟だから、ほぼ同じ環境に育った。少なくとも二人の父と母は同じ人物である。ただしその環境の主役である父親と母親が、それぞれ死霊に取りつかれたような家系から出た人だった。その家系というのは、ひとことで言ってしまえば 「親がアメリカらしく自分に率直に生きることで、すべての子供の感受性を回復不可能なまでにゆがめてしまう」 という特徴を持ったものだった。
 ・・・・・・・・・・・、たとえば母親のところにに見知らぬ男が来て、それまで自分をあやしてくれていた母親が突然子供を寝室に閉じ込めてしまえば、子供はそれまでのやさしい母親と部屋に閉じ込めた母親に、連続した人間性を認めなくなる。当たり前である。それが毎週のように続けば、毎日母親が自分を愛撫してくれる手触りに、いつの間にか知らない男の混じり物のあるにおいを感じ取るようになるだろう。
 ある日、母親が男といさかいを起こした後に泣きながら寝室に戻って子供を抱き上げれば、お母さんは今心ここにあらずなのだということを、子供は母親の眉間の縦皺に読まなければならない。その縦皺には、「今この瞬間はお前なんか愛していない、というメッセージ」が確かに刻まれているのである。
 このとき母親は、「自分は子供を愛していない」という事実を認めようとしないことが多い。彼女は、男を連れ込んでいる自分は「夫が愛してくれないゆえの一時的に気の迷った仮りの自分であり、本当は子供に愛情深い母親である」と思い込んでいることが多い。このことが事態をややこしくする。そして自分の愛情表現が口先だけの擬態であると、子供が見破ることを許さない。
 子供の精神は窮状に追い込まれる。いくら「本当はお前のことが一番なんだよ」と言われても、子供が母親の人格を根本的に疑ってしまうのは、ヘビににらまれたカエルがヘビの愛情を信じないように、仕方がない。
 子供の危機は深刻である。「自分を愛しているようには全く感じられない母親の身振り」を、子供は「自分を愛していることの徴候」として解釈することを強制される。幼い子にはそれ以外に生きていくすべがないからだ。そして、この解釈を自分で受け入れ、「母親は自分を愛しているようにはぜんぜん感じられない」という彼自身の感じかたこそがおかしいのだと、自分自身を否定するほかない。
 かくしてこの子供の精神的統合は失調に脅かされる。普通の人は「自分の感じ方」を根本的に疑うことはない。そんなことをすれば道路さえまともに歩けない。ところがこの子は、「自分の感じ方」を根本的に疑ってみなければ、唯一の母親を失ってしまうかもしれないのである。
 ・・・・・・・・・・、死刑囚ゲーリー・ギルモアと著者マイケル・ギルモアの母親は、そして父親も、本書を少し離れて抽象的に書けばそのような人間だった。訳者村上春樹が長い「あとがき」の初めに書いているように、この本の内容、性格を短い言葉で的確に言い表すのは大変にむずかしい。しかしそれをあえて言いきってしまえば、この本は、「パラノイア的な両親に育てられた子供はパラノイア的殺人者にならざるをえない」ということのアメリカ的証明書である。