アクセス数:アクセスカウンター

養老孟司 『人間科学講義』 ちくま学芸文庫2/3

 ●おなじものの二つの世界
 p65
 DNAは「物質である」。と同時に、「情報としてはたらく」。DNAの分子構造の決定とそれに続く遺伝情報の翻訳機構の解明によって、この奇妙な現象の意味が明らかにされた。
 たえず変化する「生きているシステム」の中で、どのようにして「固定した」情報が産出されるのか、その物質的機構とは何か、問題はそこに尽きている。それは哲学ではなく、科学の問いとなる。
 もちろんDNAという分子そのものが情報を産出しているわけではない。それが細胞という「生きているシステム」の中に置かれると、「情報として機能する」のである。
 脳と心の関係もこれと似ていると考えて差し支えない。脳からのいつもと同じ情報が、生きているシステムの中では変転きわまりない 「心」 に翻訳されるのである。男女関係のややこしさをみても、直感的に分かることだ。
 ●生物学と情報
 p88
 物理学的な叙述は徹底的に外界を実体的に表現しようとする。そこではそれを考えているヒトの脳が消える。考えている当人の脳のことは、それをほのめかしてもいけないのである。だから物理学者が神を信じてなんの不思議もない。 
 p101
 ヒューマン・ゲノム・プロジェクトは、一見、遺伝子中心形の研究に見えて、その実は脳中心主義である。ヒューマン・ゲノム・プロジェクトにおいて遺伝子を統御するのは遺伝子ではなく、ヒトの意識すなわち脳だからである。
 この種の「無意識の主義」は世界に蔓延している。世界のすべてを脳=意識に取り込もうとしている。しかしわれわれの日常生活で一日の三分の一は「意識がない」。しかしその三分の一が自分の人生のうちであることは否定のしようがない。したがってGoogleの社長が考える「世界のすべての知を網羅する」というような、精神年齢12歳の冒険少年みたいな)完全な意識中心主義には、少なくとも人生三分の一に相当する無理があるというべきだろう。
 p115
 A、T、C、Gの四つの塩基のうち、三つの組み合わせで一つのアミノ酸が指定される。ニュートン的因果関係を問う古典的な科学であれば、では、ある三つ組の塩基がある特定のアミノ酸に対応する論理は何か、と尋ねるはずである。
 しかし現代の分子生物学はそれを語らない。どの組み合わせがどのアミノ酸に対応するか、それに例外はないか、で話は終わるのである。三つ組の塩基配列アミノ酸の対応関係は「前提として与えられている」からで、因果関係を問うような範疇ではないからだ。耳をなぜミミと呼ぶのですかと尋ねる学生はいない。これが情報系の科学というものである。
 ●都市と神話
 p129
 中国の黄河はもともと「黄」河であったかどうか、私は疑っている。河がどういうとき泥水を流すか、考えてみればすぐに分かるはずである。秦の始皇帝の陵墓からは数千体の兵馬俑が発掘されている。それを焼くためにどれだけの薪が必要だったか。あるいは万里の長城のレンガを焼くためにどれだけの薪が必要だったか。帝国神話を作ろうとするとき、「黄」河が生じるのは当然なのだ。
 p138
 普通は百人いれば百様の現実があるという。ただし現代の日本人は百人いれば百一様の現実があると言うそうだ。その百一番目の現実とは何か。「客観的」なできごとだろう。徹底的に調査すればそうした唯一の客観が浮んでくるはずだ、と。これはもちろん信仰だが、NHKが公平、客観、中立をいう裏にはこうした無意識の信仰が潜んでいる。
 東日本大震災の報道を際限もなく続けて日本中を滅入らせているNHKは、「神を欠く日本において真実を間違いなく知らせる力は唯一自分たちだけが持っている」と、毎日毎夜、生真面目だけが取り得のもてない顔と声で説教している。