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養老孟司 『人間科学講義』 ちくま学芸文庫3/3

 ●シンボルと共通了解
 p188
 ヒト社会で、いったん言葉などのシンボル体系が採用されると、それを了解しない個体は徹底して排除されたはずである。進化史上、その状況が脳にかけられた強い選択圧だったと思われる。言語は脳に特定の論理構造を与えてしまうからだ。
 ここから「論理的に」他人を説得することが始まる。これは「強制了解」と呼んでいい。哲学や数学の論理、証明は強制了解の典型である。「理詰め」という表現がその「強制」をよく示している。・・・・・これまでのところその始まりは教育であり、その終わりは洗脳である。
 p194-200
 西洋人はしばしば「言葉で言えないことは『ない』」、つまり存在しないと言う。しかし西洋人にとっても絵画や音楽つまり芸術は存在している。
 絵画や音楽といった芸術は明らかなクオリアである。その美しさは確かに存在するが、言語は美しさというものを明瞭に表現できない。つまり他人との共通理解がきわめて困難である。
 「心」や「情動」も典型的なクオリア性を帯びている。現代の日本社会について、人々は「心が失われた」などという。言語による他人との表面的な共通了解可能性だけがはびこる世界では、伝えたいものの核心をなす「心」は失われていく、――それは仕方がないことだ。(今世紀になって日本語の歌詞が、特に若者の作る曲が、「情動」的な、クオリアとしての詩の形をはみすぼらしくしているのも、この理由による。その一方で、「こころを一つに・・・」といった平板な散文言語による他人との「共通了解可能性」だけははびこる一方である。)
 ●自己と排除
 p208-10
 脳が明瞭に自己規定することは誰でも知っている。しかし奇妙なことに免疫系もまた自己を強く規定する。免疫系は、抗原が自分に似ているものであっても徹底的に排除する。その極限にあっては自己免疫疾患が生じる。自分で自分の一部を自分ではないというのだ。
 そこで分裂病を思い出すのは、わたしだけだろうか。分裂病の患者は「頭の中で声がする」「考えを吹き込まれる」「考えを抜き取られる」などと言う。脳内での自己の範囲が縮小し、ある部分が自己に入ってきたり、自己の中にあった脳活動が外にでてしまうのである。
 分裂病はしばしば脳という情報系に生じた自己言及の矛盾を示すが、自己免疫疾患とは、免疫系に生じる自己言及の矛盾である。なぜ免疫系がこうまでして、異物を排除しなければならないのか。脳のモダリティ(様式・ありかた)と意識との関係のアナロジーでいうなら、組織や器官の成立と自己規定とが深くかかわっているのだろう。たしかに発生期において、同じ仲間の細胞は寄り集まる。ということは、同時に異者を排除するのである。
 分裂病は、組織や器官の成立という、「その人そのもの」の成立に深くかかわっている。だから、分裂病がその人の人生の中で完全治癒するということはまずありえない。 
 p216
 ヒトの遺伝子は約四万だが、それぞれにいくつかの同一座位つまり変異遺伝子があるから、遺伝子の組み合わせは莫大なものとなる。この組み合わせの中には古くから致死遺伝子と呼ばれるものがあり、ヒトでは鎌状貧血の遺伝子が二つそろうと、その子はたとえ生まれても重度の貧血になる。
 発生過程ではこうした遺伝子の折り合いの良し悪しが順次活性化あるいは不活性化され、空間的に複雑な形態が最終的に実現されていく。この過程はきわめて厳密に統御されているはずである。その過程で間違いが起これば、成体は生じない。子孫は生まれない。つまりゲノムとは、そうした発生過程を無事に進行させうるように「たがいに適応した遺伝子の集団」なのである。
 じつはこの過程が真の自然選択過程だとわたしは考えている。一般に考えられている環境による選択は、そのあとに存在するかもしれない、存在しないかもしれない、その程度の淘汰にすぎない。
 ●男と女
 p252
 性と脳の関係に限らず、犯罪と脳、さまざまな才能と脳の関係も、社会ではじつは表立って論じられない傾向がある。底には脳と行動の関係を因果関係で捉えようとする誤解がある。脳がこうなっているから行動がこうなるという論理である。事実は異なる。脳がこうなっていることと、行動がそうなるということはほとんど「同じこと」なのである。
 p258
 フェミニズムの問題はじつは二重になっている問題である。始まりは従来のジェンダー区分に対する異議申し立てだが、それならそれは人が自然の曖昧さを許容しなくなる社会の「脳化」に対する異議申し立てであるべきである。ところがフェミニズムが都市=典型的な脳化社会から生じてくること自体が、それ自身が都市化の産物、すなわち脳化の産物であることを意味する。ゆえにフェミニズムは本質的な異議申し立ては提出できないに違いない。