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東 浩紀 『ゲーム的リアリズムの誕生』(講談社現代新書)

 「オタク」や「萌え」を理解しようとしてよく読まれた『動物化するポストモダン』の続篇である。少なくとも私は、前世紀の最後半にあらわれた「ライトノベル」を誤解していた。民放TVドラマのようなきわめて類型化された登場人物が、ごく少ない語彙と常套句を継ぎ合わせ、韓国ドラマを少し新しくしたような会話をするだけの、女・子供向けの「小説」だと思っていた。今世紀に入ってすぐに廃れる、小説史のシミくらいにしか残らないと思っていた。
 天地明察』はコンピュータゲーム作家・冲方 丁の書いたライトノベルなのだろうが、「律儀と筋とを義理で固く締め、謹厳で覆ったような」江戸中期の若様らのあっぱれさに読者が感服するという、別になんということもない類型的な時代小説である。私は養老孟司の推薦で『天地明察』を読んだが、いわゆる文芸批評家は、これまで「オール読物」などに何千、何万と書かれてきたこういう小説にたぶん一行も触れないだろうと思っていた。
 しかしこういった認識は少し間違っている、というのが東浩紀の本書である。
 p17-20
 私たちのポストモダン社会は、「大きな物語」、すなわち社会の大多数の構成員が共有する価値観やイデオロギーが衰退してしまったことで特徴づけられる。一八世紀の末から一九七○年代まで続く「近代」においては、社会の秩序は、大きな物語の共有、具体的には規範意識や伝統の共有で確保されていた。きちんとした大人、きちんとした家庭、きちんとした人生設計のモデルが有効に機能し、社会はそれを中心に回っていた。
 しかし一九七○年代以降の「ポストモダン社会」においては、個人の自己決定や生活様式の多様性が肯定され、大きな物語をむしろ抑圧と感じる別の感性が支配的となる。そして日本でも、一九九○年代の後半からその流れが明確となった。
 ところが、このような時代認識を提示すると反論が寄せられることが多い。ポストモダンでは大きな物語は衰退するというが、現実には文明の衝突原理主義の蔓延といった大きな物語はさまざまな局面で復活し、むしろ増殖しているではないか、という反論である。・・・・・・・・・・。
 「大きな物語の衰退」という表現を常識的に理解するならば、このような疑問が生じるのはもっともかもしれない。たしかにポストモダン社会においても、「近代」においてと同じく、無数の「大きな」物語が作られ、流通し、消費されている。
 しかしポストモダン相対主義的で多文化主義的な倫理の下では、仮にある「大きな」物語を信じたとしても、それをほかの人も信じるべきだと考えることができない。たとえば、もし仮にあなたが特定の宗教の熱心な信者だったとしても、ポストモダン社会はあなたのその信仰は認めるが、あなたが、すべての人もその神に帰依すべきだと「考えること」を、たとえそれこそが信仰の表れだったとしても、決して許さない。
 いいかえれば、ポストモダンにおいては、すべての「大きな」物語は、ほかの多様な物語の一つとして、すなわち「小さな」物語としてのみ流通することが許されている。この事態を許せないのがいわゆる原理主義である。
 現代のポストモダン社会が、(宇宙戦争や神隠しや異次元世界との交流などなど)内容的には気宇壮大な奇想に満たされていたとしても、それらはきわめて多様な消費者の好みに合わせて「カスタマイズ」され、それゆえに<ほかの物語もありうるという寛容さ>にもとづいて作られているかぎりにおいて、それは同じ著者が『動物化するポストモダン』で言及した「データベース消費」のもとにある「小さな」物語として捉えるべきである。
 
 この本で、読んでタメになるのはここまで。第二章以降は作品論がつづく。“壮大な”奇想に満たされたオタクたちの原子のような小さな「異世界」には、とてもついていけない。世界的免疫学者だった多田富雄が言っていたことだが、コンピュータに入ってきた互いに無関係な情報を山ほど取り込み、エンジョイできるような若いオタクたちは、私のような「独坐観念型」の人間とは、類としての進化段階がひょっとして変わってしまったのかもしれない。
 そのオタクたちは必要経費プラスアルファしか給料をくれない会社の中でその日暮らしを続け、四十歳を過ぎてようやく不安に苛まれ始めるという。それは自業自得である。内田樹に言わせれば、 「近隣共同体と家族を解体し、家族の一人ひとりが孤立し、誰にも干渉されずに自己決定することの代償として、すべてのリスクとベネフィットを独占する権利を手に入れるという生き方に、日本人の多くが同意署名したからである。」
 「日本で隣人愛が根づかないのは、「利己心を棄てて支え合う」ことで回避されるリスクと、「利己的に振る舞う」ことで得られる利益をハカリにかけ、後者のほうが大であるとオタクたちが判断しているからである。それだけ日本が安全だということである。家族解体は平和のコストである。」