アクセス数:アクセスカウンター

夏目漱石 『吾輩は猫である』(岩波文庫)2/2

 吾輩は猫である』には、刊行一世紀後の日本社会の家族崩壊と結婚生活の破綻を、迷亭が詳細に「予言」した箇所がある。数十年前、下宿で読んだときはまったく気がつかなかった、というか、家族とか生活というものの実感がなかったのだろう。脚注を書いた斉藤恵子という方は、「経験を無視した強引な演繹論理だが、現代から見れば途方もない結論でもない」と穏やかに評しているが、いささかそれは穏やかすぎるのではないかと思うほどの「予言」である。
p495−6
 「・・・・・・僕の未来記は、そんな当座間に合わせの小問題じゃない。ご新婚の寒月君、あなたの人間全体の運命に関するものだよ。つらつら目下文明の傾向を達観して、将来の趨勢を卜すると、驚くことに結婚が不可能になる。訳はこうさ。ご維新前まで、一家を主人が代表し、一郡を代官が代表し、一国を領主が代表した時分には、代表者以外の人間には人格はまるでなかった。あっても認められなかった。
 「それが今の世は個性中心の世である。あらゆる生存者が悉く個性を主張しだして、・・・・・・二人の人間が途中で出会えばうぬが人間なら、俺も人間だぞと心の中で喧嘩を買いながら行き交う。それだけ個人が強くなった。しかしながら、個人が平等に強くなったということは、個人が平等に弱くなったということでもある。・・・・・・・強くなるのはうれしいが、弱くなるのは誰もありがたくないから、人から毛一本でも侵されまいと、強い点はあくまで固守すると同時に、せめて半毛でも人を犯してやろうと、弱いところは無理にも広げたくなる。
 「こうなると人と人の間に空間がなくなって、生きているのが窮屈になる。・・・・苦しくなるから色々の方法で個人と個人の間に余裕を求める。・・・・その苦し紛れに案出した第一の方案は親子別居の制さ。・・・・・・文明の民はたとい親子の間でもお互いにわがままを張れるだけ張らなければ損になるから、勢い両者の安全を保持するためには別居しなければならない。欧州は文明が進んでいるから日本より早くこの制度が行われている。・・・・・・息子が親父から利息の付く金を借りたり、親が息子の個性を認めてこれに尊敬を払うような欧州の美風は、早晩日本へもぜひ輸入せねばならん。
 「この親子別居の方案はただちに夫婦別居の方案でもあるのさ。いま人の考えでは、一所にいるから夫婦だと思っている。それが大きな了見違いなのだ。一所にいるためには、お互いの個性の反りが十分に合っていなくてはならないだろう。そうはいかないやね。夫はあくまで夫であって、妻はどうしたって妻だからね。
 「その妻が女学校で行燈袴をはいて牢乎たる個性を鍛え上げて、束髪姿で乗り込んでくるんだから、とても夫の思う通りになるわけがない。また夫の思う通りになるような妻なら妻じゃない、人形だからね。妻が賢婦人になればなるほど個性は凄いほど発達する。発達すれば夫と合わなくなる。だから賢妻と名がつく以上は、夫と朝から晩まで衝突している。まことに結構なことだが、賢妻を迎えれば迎えるほど双方とも苦しみの程度が増してくる。ここにおいて夫婦雑居はお互いの損だということが次第に人間に分かってくるさ・・・・・・。」
 『猫』が書かれて100年以上になるが、そしてその100年は万人平等、個性尊重の一本道であったが、漱石を破格の待遇で抱え続けた朝日新聞社はその危険な予言について漱石と何か話し合うことはあったのだろうか。あったとも思えない。いまだに「個性」「平等」に何の留保もつけていない記事の調子から見れば、能天気こそ新聞というものの本性なのだ。