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ジョナサン・スイフト 『ガリヴァー旅行記』(岩波文庫)1/2

 言うまでもないことだが、この本は子供向けの冒険奇譚ではない。全編が、上げ潮にあった英国(上層)社会に対する悪態と当てこすりに貫かれた、当時としては危険な「政治小説」である。
 巻末に、翻訳者である東大教授平井正穂の、謹厳で有名だったらしい彼にしては特異な「解説」がある。まじめ一筋の大学者であるだけに、平井先生には申し訳ないが、何とも言えぬおかしみのある「解説」だった。
 「・・・・わたし(平井)は解説を書こうとして、いろいろ苦慮したあげく、大胆に自分自身の考えを述べることにした。そしてスイフトが毎年自分の誕生日に読んでいたヨブ記第三章の言葉を持ってくることにした。彼のように複雑で自分を韜晦する、――他人に対してはもちろん、自分自身に対しても、神に対しても、自分を韜晦する人間に向かっていくには、わたしのような素朴な人間は、この他に方法はなかったからである。スイフトの人と作品を対象にするとき、われわれは自分自身のアイデンティティを喪失させられる危険がある。わたしはそれを避けたい。」
 ヨブ記第三章とは、下のように、ただひたすら神にいじめられた(とも言える)ヨブが自分の人生を嘆いた哀切な章句である。この章が上の数行に続いて記されている。「かくして後、ヨブ口を開きておのれの生を呪えり。わが生まれし日は亡び失せよ。・・・なにとてわれは胎より死にて出でざりしや、なにとて胎より出づるときに息絶えざりしや。・・・如何なれば艱難におる者に光を賜い、心苦しむ者に命を賜いしや。・・・われは安らかならず、穏やかならず、安息を得ず、ただ艱難のみ来たる。」ガリヴァー旅行記』などスイフトの諸作品に取り組むことで“自分のアイデンティティが危機に瀕した”平井先生は、複雑すぎるスイフトの人物像を描くに足る言葉を学者として持ちあわせていないことを告白しているのである。
 この平井先生に対して、夏目漱石が『文学評論』の中で描くスイフト像は明快そのものである。平井先生が気の毒なほどだ。いわく、「大発展の途についた十八世紀イギリス社会は、平穏無事で結構だという気になる。少しは寒いのも吹くが、柳も日ごとに霞んでくるという景色である。しかも当人自身はそのような世人と社会の欠点を脱却しえたと信じているから、至極太平である。」
 「これに反してスイフトはどこまでも不満足である。自分の生きた十八世紀に不満足のみならず、十九世紀にも二十世紀にも不満足なのである。人間のいるところ、社会の成立するところには一視同仁に不満足を表する男である。世の中に対して希望がないからして世を救ってやろうの、弊を矯めてやろうのという親切心もない。あるところを読むときなどは、この国の冬の空を仰いで再び日の目は見ることができないかと心細くなったような気さえする。」
 p54  小人(リリパット)国にて
 当時の宗教者のバカバカしい教義解釈をリリパット国の宮内大臣の慨嘆として紹介している。「卵を割るときには、まずその大きなほうの端を割ってから食べるというのが、リリパット国の昔からの習慣である。敵国の(カトリック国の)ブレフスキュはこのことを、偉大な預言者の基本的教義に反すると非難するが、問題の聖句には“すべての正しき信仰を持てるものは、卵に関しては、己に都合よき方の端を割るべし”とあるではないか。」もちろん毒舌の聖職者だったスイフトは、論争そのものをバカにしているのである。
 p71
 リリパット国では、子供が自分を生んでくれた親に対して何も恩義を感じなければならぬいわれはない。人生はただでさえ悲しいことで一杯なのだ。両親にしろ、愛の抱擁を交わしていたときは子供以外のことで頭は一杯であったはずだ。漱石の言うとおりスイフトは人間のいるところ、社会の成立するところには一視同仁に不満足を表する男だったのである。
 p137 巨人国にて
 三人の学者が結論付けた、「巨人国でのガリヴァーのあまりの小ささの理由づけ」が面白い。「わたしの存在する理由は『自然の戯れ』に過ぎないというのである。これこそヨーロッパの近代科学にとってまさに喜ばれそうな結論だといえよう。すべての難問を処理するこの驚嘆すべき解決策を考え出したのは、なんと、近代科学の教授諸君だった。じつに彼らこそは、アリストテレスの追随者たちが自分の無知をごまかそうとして笑止千万にも用いた神秘的原因という昔なじみの言い逃れを軽蔑した人たちだったはずである。これこそ人間の知識の発展の真の姿と言わなければならない。」
 p173-80
 ガリヴァースイフト)は当時のイギリス上層階級について、その勇気と躬行と忠誠心と赫々たる名誉心を、いかにも上流階級の太鼓持ち的な調子で巨人国の王に進講する。熱心にノートを取りながら進講を聞いていた王は、ガリヴァーの思惑通り、とくに常備軍制度について疑念を表明する。「家を守るにしても家族一同で守るほうが、街から拾い集めてきたゴロツキに賃金を払って守ってもらうよりいいのではないか」と。 当時のイギリス王に対し、イギリス上層社会の論理をわざと脆弱に展開し、破廉恥で徳心がなく領地保全にしか興味のない上流階級をやっつけさせるのがスイフトの戦略である。
 p180
 そして巨人国の王は、「お前の国には、最初の意図こそ見事だったといえる制度が、多少その面影を残してはいるとしても・・・議員、裁判官、貴族、顧問官などお前の国の上のものの大多数は、自然のお目こぼしでこの地球上を這いずり回る嫌らしい小害虫の中でも、もっとも悪辣な種類だと断定せざるを得ない」と総括する。そうすることで 「私は、世界に冠たる祖国イギリスが巨人国の王にさんざん馬鹿にされるのに憤慨したが、歯を食いしばって我慢するより仕方がなかった」として、スイフトは出版検閲を逃れようとしたのだろう。
 p184
 ある日、ガリヴァーは、王と話しながら「イギリスには国家機密や政略の技術について書かれた本が何千冊もある」と言った。すると王は「お前たちの分別はその程度のものか。君主であれ大臣であれ、「極秘」を云々する者どもこそもっとも嫌悪すべき人間だ。敵国に対してはいざ知らず、国内政治において「国家の秘密」を口にするお前の真意がわからない」と大変な剣幕であった。
 「国家の秘密は守られなければならないが、何が秘密であるかは秘密である」というのは、千年前も、スイフトの時代も、21世紀の日本でもまったく同じ、政治家たちだけの秘密の真理である。