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夏目漱石 『明暗』(角川文庫)2/3

p239
 津田の妻お延の眼には、父に頼まれて漢籍を返しに行った時に初めて会った津田の顔がちらちらした。そのときの津田は今の彼と別人ではなかった。といって、今の彼と同人でもなかった。平たく云えば、同じ人が変わったのであった。最初無関心に見えた彼は、だんだん自分にひきつけられるように変わってきた。いったんひきつけられた彼は、また次第に自分から離れるように変わっていくのではなかろうか。彼女の疑いは殆ど彼女の事実であった。
 p249
 津田と一緒になってから、おぼろげながら次第次第に明瞭になりつつあるように思われるその変化は、非常に見分けにくい色調の階段をそろりそろりと動いていく微妙なものであった。どんな鋭敏な観察者が外から覗いても到底分かりっこない性質のものであった。愛する人が自分から離れていこうとするほんの僅かな変化、もしくは前から離れていたのだという悲しい事実を、今になってそろそろ認め始めたという心持の変化。それらのことは何で他人ごときが知れようか。
 p294
 「金が出来なければ死ぬまでさ」と放り出すように言った後で、津田はまだ自分の妹・お秀の様子を窺がっていた。彼は腹の中に言葉通りの断固たる何ものも出てこないのを恥ずかしいともなんとも思わなかった。むしろ冷ややかに、お延に事情を打ち明ける苦痛と、お秀から補助を受ける不愉快とを商量した。そうして後のほうを冒したらどんなものとだろうと考えた。それに応ずる力を充分に持っていたお秀は、兄が心から後悔していないのを飽き足らなく思った。兄の後ろにご本尊のお延が控えているのを憎んだ。
 p295
 お延はさんざん人の心を自分のほうに引きつけたあとで、ひょっくり本当の顔を出すのが手だろうと津田は鑑定した。お延の彼に対する平生の素振りから推してみると、この類測に満更な無理はなかった。彼は不用意な際に、突然としてしかもしとやかに自分を驚かしに入ってくるお延の笑顔さえ想像した。その笑顔がまた変に彼の心に影響してくることも彼にはよく解っていた。彼女は一刹那に閃かすその鋭い武器の力で、いつでも即座に彼を征服した。

 下巻p41
 普通の人のように富を誇りとしたがる津田は、自分をなるべく高くお延から評価させるために、父の財産を実際より遥かよけいに見積もって彼女に提示していた。彼のお延に匂わせた自分は、今よりたいへん楽な身分にいる若旦那であった。
 利巧な彼は、財力に重きを置く点において、彼に勝るとも劣らないお延の性質をよく承知していた。極端に言えば、黄金の光から愛想のものが生まれるとまで信ずることの出来る彼には、どうかしてお延の手前を取り繕わねばならないという不安があった。・・・少なくとも彼女に対する彼の内と外には大分の距離があった。眼から鼻へ抜けるようなお延にはまたその距離が手に取る如くにわかっていた。
 しかし彼女は夫の虚偽を責めるよりもむしろ夫の淡白でないのを恨んだ。水臭いと思った。しまいには、そんな隔たりのある夫なら、こっちにも覚悟があると一人腹の中で決めた。するとその態度がまた木霊のように津田の胸に反響した。二人はどこまで行っても、直に向き合うわけに行かなかった。
 p50
 愛と虚偽――彼は自分に大事なある問題の所有者であったが、実験の機会が与えらえない限り、頭の中でまとまりのないことを徒らに考え続けなければならなかった。哲学者でない彼は自身の人生観をすら、組織正しい形式の下に、わが目の前に並べてみることが出来なかった。
 お延の手前憚らなければならないようなことばかり考えていたあげくに、・・・・頭の中に自然に湧いて出るものに責任は持てないという弁解さえ、そのときの彼にはなかった。彼の見たお延に不可解な点がある代わりに、自分もお延の知らない事実を胸の中に納めているのだくらいの料簡は、遠くのほうで働いていたのかも知れないが、それさえ、いざとならなければはっきりした言葉となって、彼の頭に現れて来るはずがなかった。
 夫婦お互いの、相手に対する内なる心理の流れを、内省と妄想の中間地帯で描ききるこの筆致は、理路整然とした地の文でありながら「何でも知っている作者の俯瞰視座」を感じさせることがない。「俯瞰視座」がないことは、いい小説であることの必要条件だが、そのことは例えばプルースト失われた時を求めて』第一巻のあるページを見てもよく分かる。主人公の大好きな大叔母の死にかかったときの痴呆ぶりが描かれるのだが、わたしは、死にかかった人の何とも言えない「おかしみ」と、その人への周囲の愛情が、このように明晰で論理的な地の文のなかに表現されているのはあまり見たことがない。具体的には次のようである。
 第一巻p260
 (衰弱し、少し頭のおかしくなっていた)大叔母は、私たち家族のことは心底から愛していたが、私たちの家が火事になり、家族全員が非業の死を遂げてしまうという妄想にも喜びを感じたはずである。気分がよく汗もかいていないときなど、家が火事だという警報が舞い込むことは、しばしば大叔母の期待にとり憑いたに違いない。そうなれば周囲の人々の哀悼に包まれて、家族に対する自分の愛情を味わい尽くすことができるうえ、村中が唖然とするなか喪主をつとめ、今までは自分という瀕死の老人が健気にきちんと立つ姿を見せられるという副次的利点もあったからである。
 大叔母が孤独のなか、えんえんとカードの一人占いに熱中しているとき、きっとこの種のできごとの成就を期待したにちがいないが、もちろんそんなことはいっさい起こらなかった。二度とその口調を忘れることができない悪い知らせに刻印されている現実の死は、論理的で抽象的な死の可能性とはまるで異なるからである。