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多田富雄 『生命をめぐる対話』(ちくま文庫)1/2

 1990年代に『免疫の意味論』、『生命の意味論』という二冊の名著を書いた世界的免疫学者の対談集。『免疫の意味論』、『生命の意味論』のどちらでも、生命における自己と非自己の境界認識の意味が深く掘り下げられていた。読んだときの感動が今でも残っている。
 本書にはその『生命の意味論』に書かれてある「生命とは超システムである」ということをめぐって、五木寛之井上ひさし日野啓三、橋岡久馬、白洲正子田原総一朗養老孟司中村桂子、畑中正一、青木保高安秀樹といった多彩な人たちとの興味深い対談がおさめられている。どの人との対談も中身が濃い。300ページちょっとだが、ずいぶんと気を入れて読まなくてはならず、小さな文庫本は附箋だらけになってしまった。
 p81−3   VS 日野啓三(小説家 評論家」
  「生命活動自身が生み出すルール」
 日野  僕は7,8年前に、イリヤ・プリゴジンというノーベル化学賞を貰った人の『混沌からの秩序』という本を持ってタクラマカン砂漠に行ったんです。・・・・・そこで、昼間は砂漠を見て、夜はプリゴジンを読んでいました。プリゴジンは、物質には種類を問わずそれ自身に自己組織化の働きがあるという。物質はある条件、ある値のゆらぎの条件の中で、特異点というものを通過すると、その後いっそうカオス化しちゃってめちゃくちゃになるか、それとも新しい動的な構造を作るか、どちらかだと言う。
 砂漠へ出てみますと、無限の数を持つ砂がつくる砂丘の形に、どれ一つとして同じものがないんですね。あらゆる稜線が、直線、湾曲線、放物線、いろんな線があって、面も、まさに考えられる限りの面がある。それでいて、全体はカオス化してめちゃくちゃになっているわけではない、砂漠として、風が吹くたびに形を変える美しい動的な構造を持っている・・・・・・。
 そういう物質自身の自己形成力と、多田さんのおっしゃる60兆個の細胞の自己創造的なシステムというのは、どういう関係にあるのでしょうか。いったい関係というものはあるんでしょうか。
 多田  プリゴジンの考えのように、初めに混沌があって、その混沌の中でゆらぎが生じて、それがもとになって新しいルール、つまりアルゴリズムが生じて、それにしたがって何か形あるもの、つまり秩序が形成されていくという過程は確かにあると思います
 ただそういうものが元になって、次の階層の問題が生じるときには一種の飛躍がある。素粒子や原子のレベルでの問題から、今度は遺伝子とかタンパク質などの高分子という次の階層での問題が非連続的に生じて、それを元にしてまた次の階層に問題が生まれる。
 ですから遺伝子がどうして生まれたかというと、もともとは物質の化学反応によって生まれたわけです。ですが、遺伝子の世界は、素粒子とか原子というレベルでのルールから免れることはできないけれど、素粒子や原子の段階のルールだけでは説明できないことをやっていますね。
 今度は遺伝子や高分子が出てきますと、体のあらゆる生命現象はタンパク質分子とタンパク質分子の相互作用で起こっているわけです。その限りにおいては物質レベルでの現象に過ぎない。しかしそれを重ねていっても、細胞という一段階上のものを作り出すことはできません。つまり、タンパク質とタンパク質の化学反応を単に重ねていっても今ある生命ができるわけではなくて、もうひとつ別な次元の、違ったルールを持ち込まなければ細胞ひとつできないということなんです。非連続的な一種の飛躍が起きなければ、タンパク質同士の化学反応から今の生命は生まれないと思います。
 また、個体は細胞の集まりですから、その細胞が増えたり分化したりする必要がありますよね。その増殖や分化についても、細胞の中にもうすでにルールがあるわけですが、その細胞のルールだけをいくら寄せ集めても、もう一段上の個体とか脳とか免疫とか、そういった高次の生命活動は作り出すことができません。この場面でも非連続的な飛躍が欠かせません。
 ですから、そういう何段階ものひとつひとつ飛躍した階層の上に、最終的な人間というものが作り出されているわけです。 ところが、科学というのは逆にどんどん下の階層の問題に戻してしまわないと気がすまない。科学は、原理的に、ある現象を言葉と数字で「記述」して他人に理解可能にしようとする説明行為です。細胞という段階のことでさえ、原子や分子のルールだけでは説明のできない何ものかがあるはずなのに、人体全体とか病気とかまでそれで説明しようとする。・・・・・・・・科学は還元論ですよね、要素に戻してわかったような気になっちゃう。この、わかった気がしちゃうということが、じつはリアリティーを裏切るという重大なことを含んでいると思うんです。