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池田純一 『ウェブ文明論』(新潮選書 )1/2

 「ウェブはもはや一つの文明である」という仮説を著者はたてる。そして、そのウェブの機能を毎日毎日、前に前に進めていくアメリカ社会の技術の深層流を、基本的には肯定的に描く。アメリカ好きの人は下の「あとがき」にあった一節に共感を覚えるだろう。
 p327−8
 よくアメリカを支える精神はフロンティア精神だといわれる。しかし、アメリカ大陸内において膨張を目指した勇猛果敢な精神だけでなく、実は「航海術の精神」と呼ぶべきものも、アメリカを支えてきたのではないだろうか。・・・・・この航海術が後にアメリカ人となる人々を北米大陸に運んだ。あるいは、月に人を送ることに成功し、いままた火星に人を送ろうとする姿勢も、現代における航海術精神の実践のように思われる。
 そこでは、合理的な精神と精妙な技術の組み合わせが一歩一歩の歩みを可能にする。嵐の大海原に放り出された船が、航海士によって活路を見出すことで、所期のゴールにたどり着く。海図なき状況でも羅針盤を頼りに前進する。計測技術を大いに活用する(現在の)ウェブデータ技術の根底には、この大航海時代のノウハウと精神が据えられている。このような情報の海原を通じて「ウェブ文明」は「私たち」の日常の中に深く入り込んでいる。
 「私たち」とはアメリカ人だけでなく、生活の隅々に「アメリカ的」なものを許容している、日本を含めた全世界の人々のことである。この本の、多分理系思考型の著者に、「銃乱射が絶えないアメリカの現状をあなたはどう思うのか」と質問するのは、野暮というものである。

 p65  アメリカ文化はメディア技術抜きで語れない
 アメリカ社会は融和を重視する。多民族の共存こそ、国内的な政治課題の最優先課題である。だからこそ、逆説的なことだが、アメリカでは一人ひとりの出自の民族性が強調される。十年ごとに行われる国勢調査において、自分は何系であり先祖の祖国はどこかなどを答えなければならない。民族的な区別の所在を確認したうえで平等な扱いを試みるというのが政策上の基本姿勢だからだ。
 国民として性急な同一化=融合を図るのではなく、多文化併存の現状を把握したうえで共存=融和を図ろうとするのだから、アメリカの場合はどのような大衆文化・消費文化にも、自分たちの出身民族性を通底しつつそれを超える何かが必要とされる。それがなければ、音楽も映画も演劇もプロスポーツも、全アメリカ的なポピュラリティを獲得することはできない。
 出身民族性を通底しつつそれを超える何かとは、じつはその大衆文化、消費文化の先頭に立つ人たちの「有名性」ということである。融和が政治的公式見解である社会では、彼らが全米的に「有名」であることこそ、多民族を自発的に結び付け融合を促す役割を果たすのだ。
 そう考えると、アメリカ文化と呼ばれるものが、基本的には20世紀になって現われたメディア技術とともにあることに気がつく。メディア技術は、サラダボウルに投げ込まれただけのサブカルチャーのいろいろな要素を揺さぶってメルティングポットに変え、そのカオス状態の中から数多くの大衆文化を生み出す。もちろんそれらは、商業主義的に過ぎると非難されるものが大半である。しかし2009年に亡くなったマイケル・ジャクソンをはじめとして、貧困層出身の特定の個人がアメリカ文化のアイコンとして浮上するのも、メディアが媒介した有名性が多民族融合の契機になっているからだ。
 だからこそ、選挙登録を促す<Rock the Vote>運動のように、有名性を媒介するメディアの機能を逆に利用して、大衆文化自体を社会運動につなげようとする人たちも出てくる。メディア技術は単なる媒介技術であることを超えて、今アメリカではそれ自身が文化を牽引する存在になっていっているのだ。それは多民族間の多種多様な独自文化を融合させて「21世紀のアメリカ文化」を創り出そうとしている。現在のウェブはこの視点から捉えられなければならない。