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池田純一 『ウェブ文明論』(新潮選書)2/2

 p283−7  ウェブによる社会運動の「ゲーム」化
 一部のアメリカ嫌いの人にとってはあきれ果てたこととも言えるが、いまアメリカでは、社会体制・政治体制の根幹である共和制の「リパブリック=徳」ということが議論されている。なにかと言えば 「徳=アメリカのプライド」を言い出す共和党支持者はもちろん、民主党支持者においても、この「リパブリック=徳」議論は真剣である。それも、政党関係者、産業界上層部といった社会を統べる側からのトップダウン議論だけでなく、一般の人々からのボトムアップ議論にもこの「アメリカ的リパブリック=徳」を高揚させようという動きを見ることができる。 
 そして興味深いことに、一般の人々のウェブ的な経験がこの「リパブリック=徳」の見直しを後押ししているのである。
 リパブリックの語源は res publica (ひとびとの もの)というラテン語なので、直接的には共和政体とは「みんなのもの」を意味する。この「みんなのもの」という意識を全アメリカ人に流布させ、「徳の高いみんなの社会=アメリカ」を実現しようという動きがウェブを経験した世代から提案されているわけだ。上の、選挙登録を促す<Rock the Vote>もこの一種だが、この運動は多種多様な社会的価値をウェブ上の活動を通じて向上させようとするものである。この運動は多くの一般人が家庭や高校、大学で毎日やっているウェブゲームに似ているところからゲーミフィケーションとも呼ばれる。 
 ・・・・・・ウェブゲームと言ってもばかにしてはいけない。このようなウェブ感覚はソーシャルネットワークによってゲーム以外のものにも適用されるようになったもので、交信する、繋がる等の行為をコミュニケーションとして一元的に捉えるという感覚なのだ。ニューヨークタイムズにも、書籍や映画、美術作品に並んでビデオゲームの批評欄がある。戦争もの、冒険もの等のゲーム作品が、CG等の表現技術や物語構成の観点から定期的にレビューされる。
 その中でよく目につくのが、仲間とパーティを組み、一つの目的に向けて協働する英雄譚を模した作品だ。ゲームがスタンドアロンからオンラインになるにつれて、この協働作業の意味は高くなり、ゲーム参加者の意識が変わってきているといわれている。仲間との協働で目的が達成されると epic win!(やり遂げた!)という鬨の声が上がる。epicという言葉には英雄譚や叙事詩の意味もある。要するに、ゲームがウェブに移るにつれて、その体験には個人的な快だけでなく、協働や集団における快の要素が加わっているわけで、ここから上に述べた「リパブリック=徳」の見直しをボトムアップ的に行うといういかにもアメリカ的な動きがごく自然に起きるのだ。
 ・・・・・少し大げさに言えば、こうしたゲーミフィケーションの動きは、社会の中に「私たち」の身の丈に見合った中くらいのサイズの「自分たちだけの物語」を作っていこうという、ウェブ時代の集団意識のあり方を示すものだろう。制度宗教の欺瞞や政治イデオロギーの空虚さがとうの昔に暴露され、社会全体に網をかける大きな物語があり得なくなったいま、アメリカ社会は、ボトムアップ的に編成されたグループをまとめ上げていく「私たち」の物語を必要としているのだろう。
 それは淋しい「私」の物語ではない。社会に隠された秘密を探し求め、その秘密との対峙の仕方を個人が悶々と考えあぐねる、そのような「私」ひとりの物語ではない。そのような孤立した小さな「私」の物語ではなく、交信の取れる人々=集団や仲間と、意図的かどうかは問わず、いかに協働しながらある目的を達成するのか、そのようなふるまいを記す「社会とつながっている私」の物語が求められているのだ。
 いまわが国のポピュラー音楽シーンでどうしてソロの歌手がほとんど出ないのか、グループで歌う少年少女たちの歌詞がなぜ心に響く詩になっていないのか、なぜ少年少女たちの日常会話がそのまま音符に乗っているだけなのか。・・・・・・日本の少年少女たちの「個」の貧困を嘆くのは簡単である。しかし少年少女たちは、そうした貧しく小さな「私」の物語ではなく、交信の取れる集団や仲間つまり「私たち」の物語を作ろうとしているのだと考えることもできる。そう考えてみると、「私」をボトムアップされた「私たち」に編成し、社会的グループにまとめ上げていくというアメリカのゲーミフィケーション現象が示唆するところは多い。
 数年前、日本のケータイの人気作家・凛という女性は「プロの作家は文が難しすぎるし、わざわざくどい表現を使っているし、ストーリーも私たちみんなに関係ないことばかり」と言ったらしいが、一日4時間、5時間スマホする若者たちはもうとっくにアメリカ的集団意識の中にいるのかもしれない。