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内田 樹 『死と身体』(医学書院)1/2

 P17−8
 統合失調症の原因の一つは、母子間のメタコミュニケーションの不調にある
 私たちはふだんコミュニケーションの現場で、メッセージのやり取りと同時にメッセージの解読の仕方のついての「メタ・メッセージ」のやり取りをしている。
 メッセージとメタ・メッセージの関係は、いわば「暗号電報」と「暗号解読表」の関係にある。暗号解読表がなければ暗号電報が解読できないように、コミュニケーションの場においては、メタ・メッセージについて話し手・聞き手間に合意がない限り、いかなるコミュニケーションも成立しない。
 普通の人間関係の間では、このようなメタ・コミュニケーションをわたしたちはほとんど無意識に行っている。だから 「あなたはどういうふうにメタ・メッセージを聞き取っているのか?」と正面切って問われると、答えに窮してしまう。幼児が母親に「大好きよ、キスして」と言われたら、幼児は何のためらいもなくキスをする。その場に誤解の入る恐れは、「普通は」まったくない。
 一九五○年代に、こうしたメタ・コミュニケーションの不調が青少年の統合失調症の原因になるという「ダブルバインド(二重拘束)」がグレゴリー・ベイドソンによって提唱された。ダブルバインドとは、家族関係(おもに母子関係)を通じて、子供がメタ・メッセージを適切に読み取ることを組織的に妨害される状況を意味する。ベイトソンは、子供の精神を混乱させる次のような母親を典型的な事例としてあげている。この母親は口では息子に向かって「愛している」と言いながら、息子が抱いてもらおうと思って近づくと身をかわしてしまう、そんな行動を頻繁に見せる。
 このとき母親自身は、「自分は息子を愛していない」という事実を認めようとしないことが多い。このことが事態をややこしくする。自分を愛情深い母親であると思い込みたい彼女は、自分の愛情表現が口先だけの擬態であると息子が見破ることを許さない。
 母親は口先だけの「愛しているよ」ということばを、「息子が近づくと身をかわす」という身体レベルで発信している「お前なんか愛していない」というメッセージを否定するメタ・メッセージとして読むことを、息子に要求する。彼女はメッセージとメタ・メッセージをすり替えようとしているのである。
 息子の精神は窮地に追い込まれる。彼は (自分を愛しているようにはぜんぜん感じられない) 母親の身振りを「自分を愛していることの徴候」として解釈すなければならない。この解釈を自分で受け入れるためには、「母親は自分を愛しているようにはぜんぜん感じられない」という彼自身の「感じ」を否定するほかない。
 こうして、この息子は、出口のない状況にはまり込む。母親に近づいても、遠ざかっても、どちらにしても叱責されるからだ。このような状態に継続的に置かれると、子供はやがてメッセージとメタ・メッセージのレベルを識別する能力を致命的なかたちで損なわれる。
 その結果、この子供は相手が本当に言いたいのは何なのかを決定することにも、自分が本当に言いたいことを表現することにも、どちらにも習熟しないまま成長することになる。
 この子供は、正常な人間関係を気づくために必要な、メッセージの正しい解釈ができないのだから、家庭と社会のいろいろな場面で、あいまいな答えをしてリスクを避けるようになる。あるいはメッセージのレベル差を無視して、すべて字義通りに受け止め、結果的にいかなるメッセージにも重要性を認めなくなる。あるいは、外界からのメッセージをすべて遮断して黙り込む・・・・・・これらはいずれも統合失調症の徴候である。

 p149
 「死んだあとの自分」を今から回想する
 武士道とは死ぬことと見つけたり、というのは『葉隠』だが、常住坐臥死を忘れないというのはそれほど宗教的なことでも思弁的なことでもなく、死に臨んだときの自分のたたずまいをはっきり思い描ける人間だけがよく生きることができるという、ある意味では功利的な経験則を語った言葉だろうと僕・内田は解釈している。
 死ぬという未来のできごとの意味を「今」発見してしまったのだから、『葉隠』はフランス語文法で言う「前未来形」で自分を語っているのだが、この、前未来形で自分を語るというのは人間の生存戦略上、たいへんにすぐれた方法である。人間が、爪も牙もない、これほど脆弱な哺乳類であるにもかかわらず、最終的に地球を支配することができたのは、この「時間をいじる能力」によるのではないか。
 というのは、動物と人間を決定的に分けるのは「死んだあと」という境域をありありと想像する力、ほとんどそれだけだからだ。だからこそ、約五万年前に私たちの祖先は「葬礼」を行うという習慣を獲得したことによって、他の霊長類から特異な形で分岐した。

  p233 
 死者からのメッセージを聴く・・・・・
 僕・内田が畏敬するエマニュエル・レヴィナスアウシュビッツで自分の家族、親族のほとんどを失った人だが、それについての恨み言はほとんど語らない。ナチスの暴虐に対しても、無垢の被害者という立場から糾弾するという語り方はしない。それは「死者の代弁者」の「虚名」をまとうことへの強い自制があるからである。
 「たとえユダヤ人が六○○万人死んだとしても、わたしは死んだ同胞の代弁人である、彼らの遺言執行人であると主張してはならない」 というエマニュエル・レヴィナスの言明は、最も正しい葬送儀礼の辞であると私は思う。
 死者の声が聞こえる。聞こえるけれども、死者がなにを言っているかはわからない。そのわからない言葉は、永遠に響かせるだけにとどめ、決してそれを翻訳しようとしてはいけない。「恐山のイタコ」みたいにペラペラと死者の思いを通訳してはいけない。
 何を言っているかよくわからない死者の言葉をペラペラと通訳することほど、死者を冒涜する行為はない。死者はかつて生前、あなたにとって十全には理解できない「他者」だったのだから。その他者が物言わぬ死者になったとき、生きていた時でさえよく理解できなかったのに、死んだとたんペラペラと代弁できるほどその人を理解できるはずがないではないか。