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ガルシア・マルケス 『誘拐の知らせ』(ちくま文庫)

 麻薬輸出国コロンビアの、国家としての混乱を深層から描いたエンタテインメント小説。麻薬シンジケートによる政府要人の誘拐によって背面から揺さぶられ、最大の麻薬消費地・アメリカからは正面切っての貿易断絶圧力を受けて、コロンビアの若い熱血大統領の悩みは深い・・・・・・。
 しかし考えてみれば話は逆である。麻薬犯罪の根本は生産ではなく消費することにあるのだから、コロンビアの国家としての混乱の責任はアメリカが一義的に負うべきである。生産も悪であるというなら、アメリカの農業メジャーがコロンビア農民の農作物価格を完全にコントロールし、農民に麻薬以外に収入源を持たせないことこそ悪である。

 アメリカは、全国民の一%が全部の富の五十%を独占するという社会である。旧約聖書以来の弱肉強食を宿命づけられている彼らがそのことに異議を申し立てることはない。アメリカンドリームという言葉がいまも生きているのは、自分たちが富の五十%を握るグループに入りたいという可憐な欲望がいまも生々しいからにほかならない。
 しかし人口の十三%が政府の言う貧困ライン以下の生活をし、その多くは時給5ドルの低賃金で働かされている。時給5ドルではドリームという単語を聞くことさえ鬱陶しいだろう。そんな彼らの一定割合が麻薬に走ることを防ぐのはきわめて難しく、アメリカ社会全体として麻薬の消費意欲が衰える根拠を探すのはむずかしい。

 ガルシア・マルケスは麻薬カルテルの大ボス、パブロ・エスコバルを凶悪犯罪人として断罪しない。誘拐された特権階級がエスコバルの諜報戦略にみっともなく右往左往させられる一方、エスコバルにはアメリカに立ち向かう名誉ある悪漢=インディオ族長の役が与えられている。ガルシア・マルケスはパブロ・エスコバルを、エジプトとバビロニアの双方から攻め立てられ、政治的に困難な時代にあった古代イスラエルの悲劇的預言者として描いたのかもしれない。
 
 日本では考えにくいが、欧米にはキリスト教会がスポンサーである宗教TV番組がかなりある。その一つ『神との一分』を主宰するラファエル・ガルシア・エレーロスという神父が終幕近くで重要な役回りを持って登場する。この小説の中で唯一つ、伏線が張られておらずマルケスの苦労が少し覗けて見える。彼はまさしくエスコバルを条件付投降させる切り札なのに、エンディング近くで突然舞台に上ってくるのである。本物の聖人かいかさま師かと世間でも言われているのだが、信仰を持たないある学者は「抜け目のない商売の感覚に感銘を受けた」といい、神父の側近は「神父様は話のあいだじゅう水に浮んでいるみたいだった」という。まあ禅宗の高僧みたいな人間なのだろう。
 しかしガルシア・マルケスがもっと前半部に登場させなかったのはなぜか。作品の中で場面は時間的に自由に飛び回り、人物のせりふも複雑に揺れ動いて被害者心理に現実感を持たせているのだから、かなり前でも神父は出て来られたはずである。神父とたとえば公安担当大統領顧問ラファエル・パルドをからみ合わせても、政治と宗教のさらなる旧約聖書的交錯が見られたのではないか。
 
 麻薬密売の長にしてテロリスト最大のボスでもあるパブロ・エスコバルは、合法・違法を問わずすべての武器を動員して神と悪魔の両方と取引をしようとし続ける。脱出不可能なアメリカの刑務所に引き渡されることと、国内刑務所でM-19などの対立組織や警察組織から殺されることだけを恐れて。 エスコバルの条件付投降に関する政府との交渉術は北朝鮮のアメリカ・国連との駆け引きに酷似してとても面白い。
 
 それにしても、コロンビアは日本とは地球の真裏にある国である。地球の真裏にある国であれば、人間性の基礎を決めるコスモロジーが日本の真裏であってもおかしくない。敵の扱い方が日本人とは真逆であっても不思議はない。麻薬密売の大ボス・エスコバルの妻マルーハは、夫の不倶戴天の敵である特権階級の一人アルベルト・ビヤミサルをこんなにもロマンティックに語るのだ。
 p318
 「最初にあったとき好意を持ったのは、助けを必要としているような雰囲気のせい。典型的な反体制派大学生のように、肩まで伸びた髪に無精ひげを生やして、シャツは一枚しか持っていないように見えた。二度目に会ったときはパーティ好きで、手が早くて、つむじ曲がりという感じだった。わたしは三度目の出会いで彼のことを一気に見抜いた。――美しい女が相手であれば理性を捨てることのできる男だった。相手が知的で感受性の豊かな女であればなおさらで、さらに、鉄の意志と棘に囲まれたやわらかな心を余計に持っている(わたしのような)女であれば言うまでもなかった」