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養老孟司 『身体の文学史』(新潮選書)

 養老孟司によれば、私たちが「身体性」を急速に喪失したのは江戸時代以降のことである。つまり「脳化社会」が始まったのは江戸時代からである。
 中世までは、すべての情報の入力・出力は身体を通してのものであった。生きることだけでなく死も、手で触れ、悲しみ、匂いを嗅ぎ、腐敗してゆく様を目で見て感得した。あの恐ろしい「九相詩絵巻」などは、そういう身体の認識をもとに描かれたものである。今昔物語も往生要集も、生身で実感できる世界であった。
 中世においては、文学や芸術もまた、「身体」が作り出し、表現したものだった。「心―脳」などの手の届くところではなかった。
 能は純粋な「型」の芸能であるが、能を大成したといわれる世阿弥花伝書の中には、「型」などという言葉は、まだなかった。身体の動きを脳の中の「画像」として類型化するという脳の作業がまだ要請されない時代だったのである。世阿弥花伝書はあっけらかんと感じるほど、徹底的な身体論である。
 しかし江戸すなわち近世社会は、そこから身体性を徹底的に排除した。なぜなら身体とは人が持つ自然性であり、自然性の許容は乱世を導くと考えられたからである。戦国の乱世を治めて、江戸の平和が成立したことを考えれば、その考え方はむしろ当然だろう。ただし、その平和を万世に伝わる「真実」だと考えるのは、馬鹿の一つ覚えである。われわれは今、その一つ覚えの時代にいる。
 江戸時代の人間を保証したのは、「型」であった。実体ではなく「型」としての存在。「型」を持っているからこそ、社会的な役割を持っていると「見なさ」れる。いうまでもなく、人が持つ自然性よりも社会的な役割という「型」を優先させるのは脳の機能である。自然には存在しない「型」や支配体制や身分制度を作り上げられる器官が脳以外にないのは、当然である。そういう意味で江戸時代は典型的な「脳化社会」である。
 この「身体」が近世・江戸になって失われたことが、明治以降の文学にどう影響したか。日本の近代文学がいかにして「脳化文学」という絵空事になっていったのかを、漱石、鴎外、芥川、三島そして我が国独特の私小説を分析しながら検証しているのが本書である。
 毒舌をまき散らして読者を楽しませてくれるベストセラーものを別にして、養老孟司の文章はかなり難解だ。頭がよすぎるのか、短気なのか、どちらかだろうが、一つの段落の中に、論理的につながらないとしか見えない文章が突然出てきたりして、読むほうは自分の読書リテラシーを疑ってしまう。そのあたりは養老自身も少々気にしているらしく、「ときどき、あなたの文章は翻訳が必要だといわれる」とへりくだっている。
 世界的な免疫学者であり、何度もノーベル医学賞候補になった多田富雄氏が巻末にていねいな「解説」を書いているが、多田氏は「養老さんは少々性急なところがある」とやんわりたしなめている。しかし多田氏の言うように、「読者はこの本を読んで、日本の近代文学の歴史に、(文学における脳化と身体性という)これまでとはまったく別の視点で接することになる」のは確かである。
 本書には夏目漱石『こころ』について、この視点から見た、ハッとするような記述が二か所ある。
 p47
 江戸という時代を上記のように規定すれば、江戸の「無身体」から、明治・大正の「心理のみ」への移行は、わりあい理解しやすい。とはいえ、江戸に心理主義そのものはない。漱石の『こころ』は、江戸の小説ではない。ではなぜ江戸は心理主義を生まず、明治はそれを生んだのか。通常それは、社会制度の大転換という欧化の産物として理解されるが、しかしそれだけでは、じつは何を言っているのかよくわからない・・・・・・・・・・・。
 p84−5
 身体という(文学の)背景は、四百年にわたるこの国の歴史の間に、いわば徹底的に隠蔽されてきた。その間に、身体が抑圧され、無意識化されてきたと言っていい。したがって、当然のことながら、すべては 『こころ』 の問題として表現されてくることになる。これが漱石の問題作の表題となるのは、偶然ではない。 『こころ』は漱石の「心」がでっちあげた「脳化文学」だからこそ、素人の読者がごく自然に「身体的」に読めば、筋の展開にあれほどの無理を感じるのだろう。
 ・・・・・・・・、漱石は、とどのつまりは、『明暗』を書きながら、胃潰瘍で死んだ。胃潰瘍というのは、常識的には胃の病気だが、医者がそれをどう治療するかと言えば、神経に対する薬を与える。つまり胃潰瘍は、脳の病気が身体としての胃に症状を呈するものである。「胃の抑圧」とでもいうべきであろう。
 近代日本における「非文学的」二大事件は夏目漱石胃潰瘍三島由紀夫の生首だが、これがいずれも抑圧された身体の急浮上であることは、常識的にだれもが気づいているに違いない。しかも、二つの事件とも、身体を排除しようとする思考枠組みが起こしたものであるとは考えず、文学「外」の事件とされてしまうのが、わが国のただいまの「身体としての」脳の現状である。
 社会制度ばかりを気にするわれわれはいまだに、その社会制度が自分自身の脳の「つくりもの」であるとは考えない。社会という「他」をいくら責めても自分の胃潰瘍にしか帰ってこないということを考えようとしない。