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中井久夫 『隣の病』(ちくま学芸文庫)

 同じことが同じときに遠く離れた場所で起こりうる、ということの意味 
 p20−1 
 気象学にはテレフェノメノンといわれるものがある。地球を半回りするほどにも隔たった二地点において、まったく別個の二つの事象が同じ動きを示すということである。北米海岸のある観測所のある事象と、インド洋に面したある観測所の別種の事象とが、あたかも連動しているような動きをするというようなことである。
 一方で、ある日の正午、ロンドンではアラブの女がケンブリッジの男に燃える恋をし、ベイルートではケンブリッジの男の友人がアラブの女の友達とベッドインしていることもザラにある。テレフェノメノンと言えば言えなくもない。
 ・・・・・・私たちは自分の周囲と内部に起こり続けていることについて、ごく一部しか光を当てることはできない。この光をあたる範囲が、人によって独特な具合に、少し変われば、共時性というものはごく普通のことであるかもしれない。それは共時性ということよりも、内的外的宇宙という絨毯の模様がところどころ似ているということであるかもしれない。
 それは因果律の外にあるのだろうか。ある物事の間に関係がないということを証明するのは、一般に非常に難しい。といって、事象の間の因果関係が定式化できる場合も、これまたごくまれである。
 数学的には、「決定論の立場に立っても原理的に予測不能のことが起こりうる」そうである(小川泰『フラクタルとは何か』岩波書店)。著者は「天気予報は可能か」という章でこれを説明している。観測の制度をあげれば予測の精度がどこまでも向上することはないという。一般に三次元以上の空間においては原因と結果が一つの線で結びつけられないらしい。
 ・・・・・・現実が因果律の世界であることを要求する人は、すべてを知れば因果関係がたどれるはずだと考える。しかし、これは神もなしえないことである。すべての宗教の神は非決定的である。祈りや奇蹟のことを持ち出すまでもなかろう。神は「第一原因者」として全世界の全現象を決定しているのであるなら、祈りや奇蹟ということが行われるはずがないからである。

 統合失調症ははたして重大な病気か
 p136
 統合失調症が重大な病気だとしたら、その症状は夢にも現われて彼らを悩ましても不思議はないが、実際は逆であって、ほとんど夢に現われない。彼らの見る夢は淋しい夢、つかみどころがない夢が多いようだが、夢の中で妄想と幻覚を見るのはもちろん、それと明確に関連した夢さえ見ない。まれに、症状が夢に現われたときは、症状自体が消失寸前であり、昼間に症状はぐっと軽くなっているのが普通である。
 通常、夢は昼間の記憶を「夜の理屈」で整理し、感情を静め、その人を救いに来るものなのに、統合失調症の人ではどうして睡眠がそういう働きをしないのか。夢は、昼の間の新しい記憶を、それまでの記憶の水脈の中に統合し、翌日の「新しい自我」の再構成に寄与しているものである。そうだとすれば、昼の間の失調状態が夢に現われない患者に対して「妄想を自我に再統合する」というような治療目標を立てるのは無意味ではなかろうか。
 ・・・・統合失調症とは人間関係に失調をきたして発症するもので、それ自体がいきなり特定器官や特定臓器に急性的ダメージを与えるものではない。長い期間を経たのちに中枢神経系を病ませてしまうのは、統合失調症胃潰瘍とか高血圧とか糖尿病とかの心身症を引き起こすからである。また、統合失調症ではいきなりの意識喪失、意識混濁といった「生命の危機」が急にやってくることはない。
 こうして見ると、統合失調症は、がん遺伝子の多くがそうであるように、ある「生存の仕方」に重要な機能を果たしているもののコントロール不能状態であって、それもがん遺伝子と違って生命そのものの脅威とならず、社会的存在として生きてゆくのに障害となる程度のものである。・・・・・、気の毒な入院患者の日常を一歩離れた視点で見れば、そういうことになる。