アクセス数:アクセスカウンター

福岡伸一 『ルリボシカミキリの青』(文芸春秋)1/2

 p15 邪悪なウィルスは善良な人間の遠い親戚である
 ウィルスはどこから来たか。最小の自己複製単位であり、構造もシンプルだ。だから一見、ウィルスは生命の出発点、生物の初源形態のように見える。それがだんだん進化して複雑化していったのだと。
 否。ウィルスの遺伝子を詳しく調べてみると、それはいずれも私たちの遺伝子に一部に似ていることがわかってきた。つまりウィルスはかつて私たちのゲノムの一部だったのだ。私たちのゲノムはつねに複製され、あるいは転写(DNAからRNAができること)されている。この過程で、たまたまはずみで細胞外に飛び出してしまった断片があった。
 それは流れ流れる旅路についた。多くのものは分解されて絶えたが、わずかなものだけは他の細胞に付着して、複製できるチャンスがあれば増え、すこしずつ変化し、殻で身を守るようになった。そして彼らはかつて自分が属していたもの、私たちのゲノムを捜し続け、その一部分にたどりついたのだ。
 ウィルスの根絶なんてできるわけがない。38億年前、私たちはウィルスだったのだから。私たちの遺伝子の一部はウィルス由来なのだから。そして今も、私たちの一部から飛び出したRNAが新しいウィルスとして生まれているのだから。 自分の尻尾を飲み込もうとしている蛇は、あまり思い上がらないほうがいい。

 p67 蝶の美しさ
 美しい蝶などいない。蝶の美しさがあるだけだ。小林秀雄に似ているけれど、ちょっと違う。カラスアゲハたちは、自分の仲間を見るとき、そこに緑や青の美しい斑点を決して見てはいない。少なくとも人間がそれを見ているようには。昆虫少年たちは知らず知らずのうちに学んでいる。蝶の美しさはいつも私たち人間の内側にだけあるということを。だから彼らは内省的なのだ。

 p114 狂牛病は終わっていない
 そもそも論を言えば、狂牛病は、牛が狂った病気というよりは、人が牛を狂わせた病気、つまり人災である。イギリスで牛を早く太らせ、たくさんミルクを取るために、家畜の死体を原料に作った肉骨粉を食べさせた。草食動物を肉食動物に変えた上に共食いを強要した。そこに病原体が紛れ込んで、牛が一斉に感染した。(そしてあろうことか、病気の原因が分からないのに)病死した牛の肉骨粉を再び餌と食べさせた。こうして被害が拡大した。肉骨粉が原因と判明した後イギリスは国内での使用を禁止したが、強欲な食肉業者は法の網をたくみに見つけ、怠惰な役人の目を掠めて国外への輸出を続けた。

 p128 天才は遺伝するか?
 一流ハンマー投げの選手の子が再び一流ハンマー投げの選手に、不世出の騎手の子がまた不世出の騎手になることは、当然遺伝ではない。一見、DNAが伝わっているように見えるけれど、実は一流を育てる「環境」が伝えられているのだ。
 こんな調査がある。一流と呼ばれる人々は、それがどんな分野であれ、例外なくある特殊な時間を共有している。幼少時を基点としてそのことだけに専心したゆまぬ努力をしている時間。それが少なくとも一万時間ある。一日三時間練習するとして、一年に一千時間、それを十年間休まず継続するということである。それをあえて強要する環境が、親から子へ伝わっているのだ。
 そう思うと別の、ある事実が納得できる。一国の主に限らず、議会でも会社でも芸能界でも、いわゆる二世、三世はおしなべて、なぜかくも弱く、薄く、粘りがないのか。それは外形だけは親から伝えられるものの、肝心の一万時間の内実が与えられていないからである。