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福岡伸一 『ルリボシカミキリの青』(文芸春秋)2/2

 p151-2 1Q84』とメンデルのえんどう豆
 村上春樹の大ベストセラー小説『1Q84』には、有名な「リトル・ピープル」が出てくる。形も大きさもはっきりしない、ただ人間に悪意だけを持っているかのような不可解な存在である。「リトル・ピープル」はジョージ・オーウェルの『1984』の世界の支配者ビッグ・ブラザーの対語のように聞える。しかしビッグ・ブラザーのような、具体的な、外的な存在ではない。
 私(福岡)は、リトル・ピープルが、「山羊だろうが、鯨だろうが、えんどう豆だろうが、どんなものでもそれを通路として現れる」という一節に反応した。目に見えないけれど、私たちの中に密かに存在し、その全能性によって人間を支配しようとするものとしてリトル・ピープルはある。私たちを乗り物として徹底的に利用し、利用価値がなくなれば躊躇なくそれを乗り捨てていくものとして描かれる。
 実は、そんな存在を私たちはすでに知っている。現在、私たちは、自らの運命を支配し、それを一義的に因果づける存在として、ビッグ・ブラザーに代わるものを信奉している。それは「遺伝子的なもの」である。もちろん遺伝子そのものは物質でしかない。しかし、微小な遺伝子を擬人化して捉えたとき、それはどんなものをも通路として立ち現れ、徹底的に利己的にふるまい、世界と私たちをその支配下に置く。彼らの究極の目的は、自己の複製だ。つまり誰の手も借りずにクローンとして娘(ドウタ)をコピーし続ける。・・・・・しかし青豆はこう問いかける。「もし我々が単なる遺伝子に乗り物に過ぎないとしたら、我々のうちに少なからざるものが、どうして奇妙なかたちをとった人生を歩まなくてはならないのだろう」と。
 たぶんこの長い小説が書かれた意味はここにある。内的な支配者として遺伝子的なものを想定し、その決定に身を任せてしまうことは、ある意味で楽ちんな人生である。でも遺伝子をそのような決定論的なものとみなすのは、遺伝子がそうだからではない。私たちがそう信じたいからである。
 ・・・・結局、外的なものにしろ、内的なものにしろ、私たちは私たちの運命をなにかにゆだねるのではなく、自分で自分の物語を紡ぎだし、その人だけのテキスト(テキスタイル=織物)の模様として外界に宣べ表すしかない。そこに新しい価値と可能性が示唆される。つまりこれは村上春樹自身の宣明なのである。私(福岡)はこの作品をそういう風に読んだ。

 さすがに福岡伸一である。私は「えんどう豆(あのメンデルのえんどう)」という「遺伝子」の暗喩にまったく気づかなかった。「(死んだ)醜い男・牛河の魂はすでに空気さなぎに変わろうとしており、その口からはリトルピープルが六人も飛び出している」というのは、「人は不条理や悪も一緒に子孫たちに伝え行く」という意味であるとは読解できなかった。牛河たちに挑む「青豆」という風変わりな女主人公の名前は、遺伝子的な内的決定論に弄ばれることを潔しとしない、青いえんどう豆のように若々しい気力・体力のシンボルであったのだ。

 p194 記憶のあきらかさはシナプスの電気の流れやすさ
 青春はみづきの下をかよふ風あるいは遠い線路のかがやき(高野公彦)
 なつかしさ、あるいは遠い記憶はどこに、どのような形であるのだろうか。どんな細胞でも、タンパク質や脂質など細胞をかたちづくる分子群は絶え間のない合成と分解のさなかにあり、流転しながらもなんとかバランスを保っている「動的平衡」状態にある。だから一つ一つの脳細胞のなかに記憶を物質的に貯蔵しておくのは不可能である。
 それは脳細胞の「外側」にしかありえない。五感に代表されるさまざまな感覚刺激が脳に入ってくると、ある脳細胞が活性化され弱い電気が発生する。その電気の流れは、シナプスを通ってとなりの細胞へ受け渡される。そして、自己愛に浸っているときのノスタルジーのように、強い刺激、繰り返し電気信号が流れる回路は、そのつど強化され、よりスムーズに電気が流れるようになる。

 p230 遺伝子複製は不完全でなければならない
 進化のプロセスで、生命は細胞分裂の際、致命的なコピーミスが生じないようさまざまな仕組みを作り出してきた。正確にDNAを合成する酵素、たとえミスが発生してもそれを校正するような修復システム。もし細胞分裂にともなう遺伝子の複製が百パーセント完全に行われれば、がんは発生しなくなるだろうか。
 たしかにコピーミスに由来するがんは起こらなくなるだろう。しかし同時に生命にとって決定的なことが起こる。それは進化の可能性が消えてしまうということである。わずかながらコピーミスが発生するゆえに、変化が起こり、その変化が次の世代に伝わる。それがもし環境に対して有利に働くなら、その変化が継承される。これが進化である。それゆえ生命は、つねにミスの可能性を残した。つまりがんの発生とは生命の進化という壮大な可能性の仕組みの中に、不可避的に内包された矛盾なのだ。