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高橋和巳 『日本の悪霊』(河出文庫)1/2

 私たちの世代は、大学内で「闘争」することで、世界という、「形」のない壁への抵抗に初めて、とても稚拙ながら「形」を与えることができた、と思っている。この小説前半部では、議論の前提となる単語ががきちんと定義されていない「全共闘」の典型的なアジ演説を久しぶりに読まされる。45年前のわるい記憶がよみがえった。
 p89
 「なぜ殺さなきゃならんのだ」
 「なぜ? ヒューマニズムかね? 可哀そうだというのかね? 不合理な階級支配を潤色する道徳、支配者の側にしか利益しない道徳や感情を、われわれまでが真似る必要はない。必要がないばかりじゃない。憐憫などという感情それ自体が悪なのだ。そういう感情をまだ後生大事に抱え込んでいることも一つの怠慢なのだ」
 「違う。憐憫から言ってるんではない。俺たちが築こうとしている社会、その完成図ではなくても、その過程を彼らにも知らせてやらなければならないからだ。この世に生を享けて、ついに無支配の社会を、その志向や予想図をかいま見ることすらせずに死ぬのは、それこそ悪だからだ。たとえ相手が札付きの保守反動であろうと、彼もこの世に生きてきた以上は、希望に満ちてではなく、恐怖と不安におののきながらであろうと、「それ」を知る権利はあり、知らせる義務がわれわれにあるからだ。
 「われわれが少数の権力者によって無力な位置に追いつめられてきたように、逆に彼らの勲章をはぎとり、豪勢な衣裳を引き裂いて、素裸にすることぐらいわけはないことだ。少数者にもそれぐらいはできる。殺すことだって簡単なことだ。だがそれよりも独占資本家には独占資本家の、大地主には大地主の贖罪を、不安と恐怖の内になりとも果たさせなければならない。なぜなら革命はなによりも倫理的な要請だからだ。」

 作者は、大学闘争の思想的決着をつけようとしてこの『悪霊』を書いたのではない。 悪霊なるものは大学や警察という権力機構の末端だけにいるものではなく、その権力を下支えするあらゆるところに存在するものである。ハナ・アーレントではないが、われわれのすべてが、それこそ類的に埋め込まれている内部の陳腐な悪を寄せ集めてその権力を支えているのだということを、高橋和巳らしく暗く暗く書いたのである。
 権力の側から見れば、大学闘争などは、「若いうちにガス抜きをさせてやったほうが社会のためだ」ほどにしか思っていない、弱者が自分を支配させるために必死でこしらえた自縛のための長い縄である。その、自分を世界の壁に縛り付ける長い縄をせっせと綯おうとしている自分というのは、いったい何者なのか・・・・・、そういう真っ暗な井戸の底からの問いのようなものが、小説中盤から生真面目な文体で読む人に突き付けられる。題名は「日本の悪霊」だが、ドストエフスキーを憚って「日本の」をわざわざつけたのだろうか。

 P194
 俺がつまらぬ犯罪を犯してわざと捕らわれようとしたのは、大学闘争の時も、そしてただいま現在も、政治が存在し、すべての人間関係に転化する構造がある限り、抹殺し尽くすことのできぬ悪の論理というものがあるということを何者かに思い知らせたいからだった。
 組織的に他者の富を略奪したものは為政者や支配者となり、個人的に掠奪すればなぜそれが強盗なのか。国家的規模で他民族の殺戮をすればそれは正義であり、個人や小集団がその同じ論理を体現すれば、なぜ殺人犯となり反逆者にならねばならないのか。権力者は平然と宦官として男を去勢し、女たちに纏足をはめることができ、ひとりの男が女を捨てればなぜ罪の意識に苦しめられなければならないのか。
 それは初歩的な疑問に過ぎないが、その初歩的な疑問にすら答えたものはいない。誰しもが、青春の一時期に、ふとそうした疑念に捉えられるのだが、やがて飼い慣らされて、思い込ませられた社会の価値に従って<余生>を送る。
 p228-9
 俺のつまらぬ犯罪を裁こうとしているこの小法廷の、一緒にテレビを見るのに飽きた家族のような倦怠の気配はなにか。
 裁判官も検事も弁護士も、多忙に疲れ、ちらちらと腕時計を見ては次の法廷時間を気にし、できるだけことを事務的にすませようとする。世の中には、つまらん人間がいすぎるものだから、ろくに休息する暇もない。まあ適当にやっときましょうや・・・。ちらっと見かわす視線に、いろいろな法廷で何度か顔を合わせて馴染みになってなってしまった者同士の暗黙のいたわりあいがあり、青くさい主張でなじみを傷つけまいとする配慮が、ありありと感じられる。
 俺は自分が喜劇の端役にされたような憤りを覚えた。この国の悪の論理を暴露しようと死ぬつもりで飛び込んだ水の深さが膝までしかなく、飛び込むまでのあらゆる逡巡、懐疑、悔恨、憤怒、そして絶望が、ただ軽佻な笑いの種にしかならない・・・・・・、俺はそのように仕組まれた劇中の人物だったのだ。
 p331
 雑居房の中には、最低の条件の中ですらなお自分の優越を示したがり、上から殴られれば下に向けて殴りつけ、強者に侮蔑されればより弱い者に侮蔑し返すような男どもがいる。
 その中で俺は「革命」を思った。当時の現実がいかに愚劣であろうと、究極的には疑おうとしなかった一つの観念のが、いま悪魔的な薄っぺらさで俺に迫ってきたた。
 圧倒的大多数の人間が愚劣であって、それを改変する変革の型だけが高貴であることなどはできない。未来が一挙に道徳的であることなど不可能なのだ。いま愚劣なものは、よりよき条件のもとにおいてもいっそう愚劣であり、いま卑屈なものは、どんな指導者に対しても卑屈であり続けるに違いない。
 人間も動物に過ぎない。それゆえに、社会改良の恐ろしい真相は、植物や動物における品種改良と同じ方法しかないのではないか。何万種の株の中からたった一本の新種を生かすような過酷さ、何万匹のショウジョウバエ放射線を当ててそこから突然変異した一匹を選び出すような冷酷さ、それ以外に自己を自ら律しうる存在としての人間を作り出すことはできないのではないか。雑居房の虱はつまみ殺すより仕方がないのだ。