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高橋和巳 『日本の悪霊』(河出文庫)2/2

 付録対談 <大いなる過渡期の論理> VS三島由紀夫
 この本には、「お宝」のような付録として、三島由紀夫高橋和巳の大学紛争をめぐる対談が収められている。初出は雑誌「潮」の1969年11月号らしいから、三島の自殺の1年前に行われたもので、三島と高橋というある意味で両極に立つ人が本音で語った「歴史的」な対談だといえる。大学紛争だけに関して言えば、論理的には三島の圧倒的「勝利」である。以下のように暴力的正論を展開する「テロリスト」三島に勝つすべは誰も当時持っていなかった。が、三島自身も自分の暴力論が日本社会に通用するはずのないことはわかりきっていた。三島の自殺の決意はこのとき、かなり煮え詰まっていたのだろう。
 p463
 三島  高橋さん、ノンセクトの説明をしてください、ぼくはよく分からないんですよ。
 高橋  いま、大学の闘争の中に非常に倫理的な部分がありますね。きびしく相手の矛盾をつくと同時に、ある程度自分の矛盾もさらけ出す。これは従来の政治青年だけの運動だと出てこない。大学の今度の行動の中に、これまで政治のことには口出ししなかった青年たちが参加している証拠ですよ。こういう人たちが政治をやりだすと、良くも悪くも極度の厳格さを要求しだすわけです。
 三島  正義運動という言葉はあたっていると思いますよ。正義は表現しなければ正義でないから表現する。それには二つの方法がありますね。一つはマス・コミュニケーションのたいへんな発達の中における表現、一つはこれだけしかないという最後の表現。ことばというものは、これだけしかないというところに属すると思うから、テレビや座談会で喋っていることはことばじゃない。高橋さんやぼくが書斎の中で一晩考えたことばが本当のことばであって、これが表現行為だと信じてるよ。だけど、もう一つ偽の表現行為を昭和三十年以降、世界中が作っちゃった。テレビとマス・コミュニケーションがね。
 学生の正義運動の表現を選ぶときに、どちらを選ぶか。これは人間としての根本的な選択だと思うよ。つまり、これしかないという表現を体で持って選ぼうとすればことばだね。最終的に、ことばか身を投げることしかない。それはもっと突き詰めれば焼身自殺だよ。このあいだ、アメリカの国会議事堂で自殺した少年と同じだ。これはことばにかけると同じ重さを、体にかけた行為だと思う。これが表現なんで、それ以外の表現は嘘なんだ。
 アメリカ大使館の窓から旗を三つぐらい垂らせば世界中に報道され、これは大変な象徴行為になって効果があるんだけども、根底的に意味はない。意味がないんだけれども、意味があるかのごとくになっている。そして全学連は、最終的に意味があるかのごときところで満足しているというところが、表現者として気に入らないんだ。
 全学連のやっていることで、戦局を変えるようなことは、何一つやっていませんよ。少なくとも正義運動だとしたら、それは政治じゃない。政治じゃなかったら効果なんて考えるべきじゃない。無効でいいんだ。無効でいいならば、何千万人に知られるなどということは考える必要ないんだ。テロリズムといわれようとなんといわれようとかまわないじゃないか。
 ぼくは彼らを忌避しているわけじゃないんだ。挑発してるんだ。ただ、彼らが自分なりの革命的な行動と表現行為というもののウェイトをどこにおいているか、興味があるわけだよ。表現行為というものを幾分甘く見てるんじゃないのか。新聞でどう評価されるかも彼らには問題なのだろう。どこのテレビで取り上げられたかも彼らには問題だろう。しかし、それがなんだというのだろう。われわれ小説家のいやらしさは文芸時評で褒められているかどうか知りたがることだけど、それと同じことじゃないか。
 ・・・・・メキシコ・オリンピックのとき、四千人の学生が軽機関銃などを持ってメキシコ・シティーの広場に集まった。政府は用意周到に外国人記者を国外に追放しておいて、そのあとで一個師団で学生を取り囲み、榴弾砲を四発ぶち込んだ。三百六十名の学生が一瞬にして消えて学生暴動は鎮圧された。日本がこれをやったら自民党、リベラル・デモクラットは崩壊しちゃう。報道管制にしたって、こういううるさい世論を相手に敷くことはできない。榴弾砲はぶっ放せない。大砲は撃てない。暴動が鎮圧できる度合いも分かっているし、暴動を起こす側もどこまでやっていいのか分かっている。ドラマチックな騒動にはなりそうもないね。