アクセス数:アクセスカウンター

村上春樹 『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』(文芸春秋)1/2

 奇妙なタイトルの意味
 主人公多崎つくるは名古屋の高校時代、男女2人ずつのとても親密な友人を持っていた。その4人の名字には赤、青、黒、白の文字が含まれていた。赤と青は男子生徒で、白と黒は女子生徒である。名前に色がついていないのは多崎だけだった。「色彩を持たない多崎つくる」という謎めいた題名の前半は、ただそれだけの意味である。
 その4人の中でシロと呼ばれていた女性は、ピアノに早熟な才能を示す 「古い日本人形を思わせる端正な顔立ちで」、「通りですれ違った多くの人が、思わず振り返って見てしまうような美人だった。」 しかし「彼女自身にはどことなく自分の美しさを持て余している」ようなところがあった。生真面目な性格で、何によらず人の注目を引くことが苦手だった。シロが鬱ないし統合失調症の一種を患っていることは明らかで、彼女は『ノルウェイの森』の直子の延長にある女性である。シロは名古屋の音楽大学のピアノ科に入ったが、才能はそこまでだった。人の注目を引くことが苦手というのは、一人前のピアニストとして世に出るためには致命的な弱点だろう。
 主人公・多崎つくるを含めて5人が大学2年生になったとき(多崎だけは東京の工科大学に進み、他は愛知県内の大学に進学して、高校以来の親友関係を続けていた)、この物語の太い流れとなる事件が起きる。シロが、多崎に強姦され妊娠したと赤、青、黒に言い立て、赤、青、黒に多崎との交友を一切立つように要求したのだ。多崎には全く身に覚えのないことであり、アリバイ云々を持ち出すまでもないのだが、シロが何者かに強姦され妊娠したことは事実だった。
 その後シロは赤、青、黒の3人とも、精神疾患が関係したよくわからない理由で交際を絶ち、ひとり浜松に引っ越してしまう。そしてそこであろうことか誰かに絞殺されてしまう。部屋は合鍵であけられ、ドアチェーンは内側から外されていて、金品を盗まれたり争った形跡もないという不思議な殺され方だった。
 題名後半の「彼の巡礼の年」とは、シロの強姦、妊娠そして謎の殺人被害の真相を探るため、赤、青、黒から一切の交際を断られ、自分の前半生を抹殺されたに等しい多崎つくるが 「巡礼者のように3人を訪ねまわり」、社会人になってからの後半生を立て直そうとするという意味である。

 今年の文化功労章に選ばれた世界的な精神病臨床医・中井久夫氏の『治療文化論』(岩波現代文庫)に「「妖精の病」と神話再生機能」という小さな章がある。そこにシロをほうふつさせる、「ほっそりとして年齢より少女めいて見えるが、立派な大学文学部四年生」の女性の話が出てくる。彼女の指導教授が、非常にすぐれた卒論を書き終えた彼女から以下の打ち明け話を聞かされて驚き、中井氏に相談を求めてきたそうである。
 その指導教授によれば、彼女には、夜な夜な妖精が訪れて来るそうである。彼女はいろいろな妖精の具体的な描写をして聞かせてくれた。妖精と彼女は、ときには文学の話や好みの音楽についても話しあった。中井氏が、同僚教授から相談をうけただけの、直接的愁訴のない「患者」の定期的面接を引き受けたのは、このように、彼女がいつも同じような話をするのでなく、毎回「クリエイティブ」であったことと、彼女の生活に大きな破綻がないらしいことによる。
 ・・・・・、彼女のリルケユング解釈についての「ユニークな卒論」を読むと、彼女の病はあるいは(「文学的天才」や「宗教的天才」に訪れやすい)「創造の病」に近いものかもしれなかった。中井氏は土居健郎に倣って、この秘密をうかうか他人に打ち明けないようにアドバイスした。なぜなら中井氏は、この「妖精との遭遇」という現象が、西洋において非常に危険なものとされていることを知っていたからだ。それは日本とは桁違いに大きい森のはずれで、「逢魔が時」に起こり、しばしば生命や精神の危機を予告するというものであった。
 妖精話を聞いているうちに中井氏は、彼女の孤独がひどく身に染みて、彼女の「夜の世界の孤独」の冷えが中井氏のくるぶしまで浸すのを感じた。彼女の自殺の危険のことは当然可能性のうちにあったが、中井氏はじっと考えて彼女が死なないことのほうに賭けた。
 その理由は、彼女は妖精との夜毎の話に苦しみながらも、かろうじて現実の生活を続け、就職に際しては、大会社に合格しながらも自分に合うとして地味な会社を選ぶ人だったからである。そして、彼女の妖精話は最後まで常同的、類型的に陥ることがなかったし、誇大的にも進んでいかなかった。また自分の孤独を否認せず、また少なくとも数人の人間を信じる能力があり、その数人のひとはいつでも彼女に誠実に対応した。

 シロも、毎日のように、彼女の心の暗い森のはずれで妖精に会い、生命や精神の危機を予感していたのだろう。しかし不幸なことに、シロ自身が、数人の人間を深く信じる能力に乏しく、多崎つくるも赤、青、黒も、シロの生命や精神の危機を感じ取るにはあまりに幼すぎた。