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村上春樹 『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』(文芸春秋)2/2

 若い男と女が数人ずつ出てくる恋愛小説だから、「嫉妬」ということが何度も語られる。以下は、上の「巡礼」譚とは直接には関係ない箇所だが、36歳の会社員になっている多崎つくるが、同年代の沙羅という女と親密な関係を持ちながら味わう「嫉妬」に似た感情の描写である。ここを読みながら村上春樹はなんというきれいごとを書くのだろうと思わないではいられなかった。
 p242‐3
 神宮前のカフェでひとり窓際の席に座り、夕暮れの光に染まった通りの風景を眺めていたとき、沙羅の姿がつくるの視野の中に入ってきた。もちろん沙羅からつくるの姿は見えない。つくるは息を呑み、思わず顔をゆがめた。数秒の間、彼女の姿は自分が会いたい心が作り上げた精巧な幻影のように思えた。しかし疑いの余地なくそれは生身の、現実の沙羅だった。
 彼女の隣には中年の男がいた。がっしりした体格の中背の男で・・・・・きれいに整えられた髪には、いくらか白いものが混じっている。顎が少しとがっていたが、感じの良い顔立ちだった。・・・・・・彼らはつくるの前をゆっくり歩いて通り過ぎたが、彼女はその男と話をするのに夢中で、まわりの物事はまるで目に入らないようだった。男が短く何かを言い、沙羅は口を開けて笑った。歯並びがはっきり見えるくらい。
 ・・・・・・・つくるの胸の左側がきりきりと痛んだ。そんな痛みを感じるのは久しぶりのことだ。大学二年の夏、四人の親しい友人たちに理不尽に切り捨てられて以来かもしれない。・・・・・・・彼が感じている心の痛みは嫉妬のもたらすものではなかった。彼が感じるのはただの哀しみだった。深く暗い竪穴の底に一人ぽつんと置かれたような悲しみだ。
 彼をいちばん苦しめているのは、沙羅が他の男と手をつないで通りを歩いていたことではなかった。あるいは彼女がこれからその男と性的な関係を持つのかもしれないという可能性でもなかった。彼女がどこかで服を脱ぎ、他の男性とベッドの入るところを想像するのは、つくるにとってもちろんきついことだった。その情景を頭から追い払うのにずいぶん努力をしなければならなかった。しかし沙羅は38歳の自立した女性で、独身で自由なのだ。彼女には彼女の人生がある。つくるにつくるの人生があるのと同じように。彼女には好きな相手と好きなところに行って、好きなことをする権利がある。
 つくるにとってショックだったのは、沙羅がその男と話をしながら、顔全体で大きく笑っていたことだった。彼女はつくるといるとき、ただの一度もそれほどあけっぴろげな表情を顔に浮かべたことはなかった。彼女がつくるに見せる表情はどのような場合であれ、いつも涼しげにコントロールされていた。そのことが何より厳しく切なくつくるの胸を裂いた。

 ・・・・こういうつくるの感情に「嫉妬」というおぞましい字をあてず、「哀しみ」という美しい字を用いて村上春樹はどうしたかったのだろう。こういう書き方を一作の中に何度かするから、ときどき彼の作品は都会派モダンボーイだった男のカタログ小説などと言われるのだ。
 ただし、現実の世の男女の愛と嫉妬にかかわる感情が、かならず表と裏の二重の生地だけで縫われているものではないことも、小説家にとっては当たり前の話である。沙羅が中年男と歩きながら「顔全体で大きく笑っていた」からといって、そして「彼女がつくるに見せる表情はどのような場合であれ、いつも涼しげにコントロールされていた」からといって、彼女が一番好きなのはその中年男だとは限らない。そのことはこの作品の別のページで、村上自身が彼ならではの名調子で語っている。

 p343
 人生は複雑な楽譜のようだ、とつくるは思う。十六分音符と三十二分音符と、たくさんの奇妙な記号と、意味不明な書き込みとで満ちている。それを正しく読み取ることは至難の業だし、たとえ正しく読み取れたとしても、またそれを正しい音に置き換えられたとしても、そこに込められた意味が人々に正しく理解され、評価されるとは限らない。それが人を幸福にするとは限らない。人の営みはなぜここまで入り組んだものでなくてはならないのだろう?