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石牟礼道子  『苦界浄土』(講談社文庫)

 有名な本だから、話の大体の筋道はもちろん分かっていた。しかしいざ読み出して数十ページ進んだところで、極めて不適切な言葉ではあるが、「これは半素人の怨み節文学か?」と小さく口に出してしまった。熊本弁の会話体はとてもいいのだが、事件がここに至った経緯などを地の文で説明する箇所になると作者の文章は途端に固くなり、特に村民たちの共同体意識や地域の後進性をワンセンテンス数百文字の複文で説明するところなどでは、日本語の統語法が大きく乱れる場面が頻出したからである。「なぜこれがいくつも文学賞をとったの?」と思った。
 ところがふとしたはずみで、巻末の「改稿に当って」のページを見たとき、石牟礼氏が、「白状すればこの作品は、だれよりも自分自身に語り聞かせる、浄瑠璃のごときものである」と書いているのを見て、すとんと納得がいった。ときどき「巫女」ともいわれた石牟礼氏のことである。「状況没入型アレルギー性発熱を常時内発させている(p200)」巫女が自分の村を襲った宿業の果てをわが体熱の赴くままに語ったのなら、現代日本語の標準表記法が大きく乱れるのも当然だろう。
 ただし、この作品が文学的に高い水準にあるかと言えば、私はそう思わない。文学的水準とはなにかと聞かれれば、話はややこしいことになってしまうが、少なくとも論理的に簡潔に書かなければいけないところは、そういうふうに書かなければ水準以前の問題である。

 作者は「美しい牧歌的な水俣の漁村を突然襲った公害」をただ糾弾するためにこの小説を書いたのではない。水俣が「取り戻さなければならない桃源郷」ではないことを、彼女自身ちゃんと書いている。「隣の家が夕餉の鰯をどのくらい焼いたか、豆腐を何丁買うたか、死者の家に葬式の旗や花輪が何本立ったか、互いの段当割はいくらか、などといったことが地域社会を結び付けているわが農漁村共同体」と。
 「水俣は、部落に代々決まったキツネモチの家柄があり、その家柄のものが他家のよくできた畑の前を通って「ああ、よくできているな」と羨望を起こしただけで、その当人は意識もせぬのに、キツネが相手の家に取りついて、取りつかれたほうでは病人が出て時には死に至ってしまうような、そういう生きとし生ける物の間に交感が存在する暗部を抱えた社会ででもあったのだ」。

 そのような前近代的な部落社会に明治41年、野口遵という男が日本窒素という、後に事実上の国策会社となる異色の化学肥料会社を建てた。野口遵は戦前の上層政商特有の、丸山真男ふうに言えば「取扱い注意人間」である。日本の電力開発の草分けである松永安左衛門は、大英帝国南アフリカ植民地首相になぞらえて、彼を“和製セシル・ローズ”と評した。進出した朝鮮では総督・陸軍大将宇垣一成とも気脈を通じて、寒村に住む朝鮮農民を酷使して河川の流れを変え、その電力で大化学肥料工場を動かし、軍部・産業界の朝鮮政策を支えていた。
 その一方で、ふるさとである後進地域水俣においては、野口個人は日本窒素水俣工場をつくったときから郷土の「世直し大明神」であり、市民の大多数からいまだに尊崇されているという。何しろ当時から、水俣市民の会話に出てくる「会社」とはチッソのことでしかなかったのであり、チッソ社員になることは「ひとつ上の水俣市民」に上昇することを意味していたのである。

 昭和34年、チッソ水俣病患者互助会が交わした「天地に恥ずべき」契約書は有名である。こう書かれている。
 子供の命 年間三万円
 大人の命 年間十万円
 死者の命 三十万円  葬祭料 二万円
 そのあと昭和43年、水俣病の原因は工場から排出されるメチル水銀化合物であると政府の公式見解が出ても、チッソの江頭豊社長は、患者互助会が出した死者1600万円、患者年額60万円の要求に対し、「昭和34年の契約は有効であるとして」ゼロ回答を続けた。それだけでなく、「水俣に異常事態が生じており、地元の全面的協力が得られなければ五か年計画を進められない」と水俣撤退をほのめかして、地元を恫喝した。
 江頭豊は海軍中将の父と海軍中佐の娘である母から生まれた人物で、前世紀後半のバブル経済期でも数々の問題経済人を輩出した日本興業銀行の出身である。「貧乏漁民は死んだ魚を食べるから水俣病になる」など数々の暴言を吐いてさんざん当時のメディアを賑わわせたが、要するに彼も旧日本軍の将軍たちとまったく同じ思考回路を持つ「取扱い注意人間」だったのだろう。
 「水俣に文明をもたらした世直し大明神」の末裔に恫喝された、前近代漁民の子孫たちは一発で陥落してしまった。チッソには第二組合ができ、第二組合員たちはあろうことか患者の家に逆襲デモをかけ始める。「水俣病ばこげんなるまでつつきだして、大ごとになってきた。命の綱の会社が潰るるぞ。水俣は闇の底に沈むぞ。水俣病患者111名と水俣市民45000人とどちらが大事か」という大合唱が起き始めた。

 ・・・・・こういった悲惨な患者と患者を取り巻く「一般市民」の泥沼の構図は、のちの第二水俣病イタイイタイ病四日市ぜんそくなどのときも存在したに違いない。どの場合でも、生活の安寧だけを願う無辜の市民の上に、儲けだけを考える鬼のような企業が毒をまき散らしたのではあるまい。私が住む福井県は人口75万の目立った産業の何もないところだが、若狭地方の「原発銀座」のおかげで、道路網の整備や高齢者保護の手厚さはびっくりするほどである。そして福井県庁前では、福島の事故以来、「命より経済が大切ですかぁー!」と毎日ラウドスピーカーががなり立てている。その前を通る市民はその音量に眉をひそめて、うつむいたまま演説者の前を通り過ぎる。
 ・・・・・この宿業の果てを描くには、石牟礼氏のように「巫者のごとく、わが体熱の赴くままに語る」しかないのかもしれない。福島原発事故のあとの「全国民の心を一つに」という全体主義的スローガンも、いささか危ないところに振れつつある巫女の言葉なのかもしれない。巫女の語る浄瑠璃は、聞く人の情けと怨みの淵を深くはするが、事態の「解決」とは次元の合わない世界の話である。

 なお、余計なことだが、水俣病事件の処理にあたって、いかにも旧国策会社のトップらしい高圧的態度に終始した江頭豊は現皇太子妃の母方の祖父である。また、著名な文芸評論家江藤淳は江頭豊の甥にあたることを最近知った。