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木村敏 「時間と自己」(中公新書)2/2

 p123
 鬱病親和的な人は、身近な共同体の範囲内では伝統的で保守的な行動様式を示す。彼らは流行の尖端を行く新奇な服を身につけないといわれるが、彼らはまた、時流に逆行してまで古風な服装を身につけることもしないだろう。彼らの自己同一性は、共同体の慣習や常識の中に埋没した形で、もっとも安全に保持されうる。
 p152
 躁病の発症と深い関係にある誘発状況として注目されるのは、近親者の死とその葬式である。これは鬱病の人が終始冷めた気分に支配されているのと際立った対照をなしている。躁病親和型の人では、近親者の死によって、死につきまとう一種名状しがたい高揚感が生まれ、躁状態になることが多い。もちろん周囲の人は強い違和感を覚える。伊丹十三の映画『お葬式』での、高瀬春奈山崎努を困らせた(?)あのシーンが思い出される人もあるだろう。
 p154
 祝祭的な放恣さを持ったカーニヴァルの仮面舞踏会と葬礼との関係はよく知られている。生がその祝祭を祝うのは、必ず死の間近においてである。(躁病発症者のように)生が高くすばやく荒々しく昂揚すればするほど、それだけ生は死に接近することになる(ビンスヴァンガー)。
 鬱病者にとっては、死は生の否定的原理としての死であるのに対して、躁病者にとっての死はむしろ一切の個別的な生がそこから生まれ出てくる生の源泉としての大いなる死である。日常の個別的生命のごときは、たかだか数十年の持続を保証されている色あせた幻影にすぎないのに対し、大いなる死とは「永遠」の別名にほかならない。
 p169
 自然と自己との完全な一体性が保存されていた原始的な状態においては、「永遠の現在」こそ、人間にとって唯一の「時間」だったはずである。そのような時間は「以前」と「以後」の方向も、過去と未来の区別も、時間の不可逆性の観念も知らぬような時間、万物がいまあるままの姿で無限に反復される永劫回帰の純粋持続であったろう。
 個人が一回限りの生と死を、集団の生と死から区別することを学んだとき、そこに未来と過去の観念が生まれ、「以前」と「以後」との不可逆な方向付けが始まった。こうして時間は、「持続」としての透明な混沌から、計測可能対象としての不透明な秩序体へと「進化」した。
 p184
 個別的自己を疎外し、社会の中での役割同一性を強要されることから発生する鬱病は、時計的時間、制度的時間の成立と同時に人間を襲うようになったものだろう。それと同時に、その人らしい「持続」が、いまの共同体的・役割的な制度化によって回復不能になってしまった。「その人のいま」を意味づける時間は、所有したり他人に貸したり売ったりできるできる「もの」になってしまい、ますます個別的論理や倫理と対立している。鬱病の時代は始まったばかりである。
 p190
 禅の考え方はずいぶん癲癇的である。大疑現前から百尺竿頭一歩を進めて、大死一番乾坤新たなリという境地で父母未生以前の自己に出遭うなどという構造は、意識の連続性が急激に変動する癲癇的な生きかた以外では不可能である。