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井筒俊彦 『コーランを読む』(岩波現代文庫)2/2

 イスラームの宗教性を支える「存在の夜」の恐怖
 P323-5,332-4
 イスラームの宗教性を底辺部分で支えている一種独特の世界感覚なるものを考えてみますと、「存在の夜」という形象が浮かんできます。『コーラン』の奥底のほうには、近代人なんかには想像もつかないような不思議な現実が開けているのですね。
 わたしたち現代人は、古代世界を考える場合でも、ややもすれば現代的感覚でそれを表象する傾向があります。今の感覚で古代的世界を見ると、古代人の生きていた世界が昼間の世界みたいに見えてくるのですね。底のほうに暗いもやもやしたものが感じられるとしても、そこにははっきりした構造を読み取れるような昼間の世界なのです。これでは、自分の手の指さえ見えないという古代の砂漠の闇の恐怖をリアリティを持って想像することができません。いや、この砂漠の夜の闇の恐怖は、オアシス都市から100キロも離れれば、現代のアラブ人にとっても変わらないものかもしれません。彼(女)らはほとんど目隠しをされた状態で、どんな敵がいるかわからない真っ暗な砂の海中に立つのですから。
 『コーラン』最初期の113章に「黎明」という皮肉な名前の付いた短い数行がありますが、この章には「存在の夜」というのが一体どんな闇を表わすのかが、祈りの言葉として描かれています。

 唱えよ、お縋り申す、黎明の主に。
 深々と更けわたる夜の闇を逃れて
 結び目に息吹きかける老婆らの悪を逃れて
 妬み男の妬み心の悪を逃れて・・・・・。

 ここに現われているのは、結び目に息吹きかける老婆らの呪い。日本にもありますね、藁人形を作ってそれに釘を打ちつけたりする呪いの形式。あれによく似ています。それから、「妬み男の妬み心・・・」、古代の世界で、妬み心はただの人間心理じゃない。呪いです。『源氏物語』でも『大鏡』でも『今昔物語』でもおなじみの、暗闇の中で相手に呪いをかける異常心理です。そういうものの「真っ暗闇の悪」を逃れて、「黎明」の主である神にお縋りしたいというのがこの113章の主題です。
 ・・・・・・「憎むもの」とか「敵」という言葉が『旧約聖書』や『コーラン』にはふんだんに出てきます。これらの言葉は、今のわれわれが普通に感がるような意味での敵や憎しみではありません。それはまさに「私」の破滅を図って、恐ろしい呪詛をかけようとしている人たち、という意味です。呪いのエネルギーを自分の内部から相手に吹き付けようとしている人がいる、という意味です。比叡山の根本中堂や永平寺本願寺といった大伽藍の本堂で、漆黒の夜中に蝋燭が一本だけ灯されている情景をご想像ください。そのなかで憤怒の形相の男が嫉妬の呪いを蝋燭の炎に向けて呟いている情景を情景をご想像ください。 そのようなことが日常行われている世界・・・・・・、『旧約聖書』にせよ、『コーラン』にせよ、それがどんなに暗い、不気味な世界であるか、お分かりになると思います。
 ・・・・・・妖霊とか悪霊とか、そういった魔性的な存在のほかに、結び目に息吹きかける老婆たちの悪心や、謀を仕掛ける妬み男の邪心が空中に漂っている砂漠の漆黒の世界。さまざまな形をとった黒いエネルギーが、隙あらば人間に襲いかかってこようとしている。悪意にみちたまなざしが、いつもどこかであなたを見つめている。ひそかに隠れたところで、呪詛、憎悪、嫉妬といった悪の力が渦巻いている・・・・・。縋るべき主のコトバを預かり広める 「預言」という、イスラームの宗教性の核心をなすところの言語現象は、このような暗黒の恐怖に満ちた「存在の夜」の雰囲気の中で成立したのです。