アクセス数:アクセスカウンター

小坂井敏晶 『民族という虚構』(ちくま学芸文庫)2/5

 虚構が生み出され、信じられてこそ、
 無根拠な世界が円滑に機能する

 p56-66
 「民族」という言葉が使用されるときは、その集団に綿々と続くなにかが存在しているという了解がある。民族が連続性を保つための、その「なにか」とは次の三つである。
(1) 個々の人間を超越する何らかの本質(超歴史的な「民族精神」)が存在すること
(2) 構成員間の血縁連続性が維持されていること
(3) 構成員個人が入れ替わっても保たれる文化的継続があること
 日本人が単一民族だとする俗説はいまでも絶えないが、それが広く流布し始めたのは戦後である。つまり、上の三つの「なにか」が「日本民族」を束ねる根幹として根拠なく流通し始めたのは、私たちの常識に反して戦後のことである。それ以前においては、多くの民族を吸収して日本人が成立したという認識が有力だったし、天皇家の先祖が朝鮮の氏族だと明言する国家主義者も戦前には少なくなかった。(現天皇はTVで天皇家と古代朝鮮王族の深い関係を認めた。)p69
 日本もフランス・ドイツ・イタリアも単一民族からなるのではないし、いわんや超歴史的な「民族精神」が存在したのでもない。内部での政治的統一が可能であったために、一つに民族という表象が後ほどできあがったのである。ソ連ユーゴスラヴィアが内部崩壊したのも、多様な人口集団を一つにまとめて表象できなかった点に、その原因を求めなければならない。
 p74-6
 国家、キリスト教会、大学、日本の「家」などの集団が永続的存在として捉えられるようになった経緯は、どこでもほぼ同じである。各共同体は本質的に目的や使命をもっており、構成員が入れ替わっても目的や使命は不変であるという観念が、その中心にある。
 この論理の帰結は、本質としての国王は不滅であるということである。この世界観においては、国王さえもが国家を代表する物質的媒体の地位に貶められる。この論理がもう一歩進むと、歴代天皇は「天皇霊」なる未来永劫に存続する唯一の本質が宿るための単なる質料に過ぎない、という折口信夫の理論にいたる。天皇霊は生まれたときから備わるのではなく、大嘗祭の呪術的儀式を通して天皇の身体に付着する外来魂だと解釈するわけである。
 この大嘗祭の呪術的儀式は、天皇家の血統存続だけを目的とした、誰の目にも明らかな虚構装置である。しかし、民族ないし国家を個人の単なる集合ではなく、ひとつの「有機的」全体と捉えるには論理的飛躍が必らず要請される。その飛躍はなんらかの社会的虚構装置で埋める他ない。
 p94
 (ちなみにではあるが、国語の発展過程にも人工的要因が必ず含まれる。言文一致とは話し言葉を書くということでは、じつはない。現在の話し言葉と書き言葉が似ているのは、書かれた文章を話すようになったためである。イタリア語・フランス語・ドイツ語で書かれたダンテ・デカルト・ルターなどの書物がいまでも読めるのは、これらの言語がそれほど変化しなかったからではなく、逆に、彼らの作品が各国語を形成したからなのだ。柄谷行人「文字論」)
 p102
 人間は外界に対して何らかの先入観を通して接する。外界の対象の「意味」は観察者から独立しては存在しない。対象と観察者のそのつどの関係において決まる。現実は必ず観察者・行為者によって馴致され、構成された表象を通してしか把握されない。したがって、相手が悪意に満ちているという印象を持つとき、それが事実であるかどうかとは別に、その表象に応じてわれわれは行動する。
 p103
 そして、無根拠であるにもかかわらず世界が円滑に機能するためには、人間によってさまざまな虚構が生み出され、それらが人間によって「信じられる」必要がある。虚構と現実は反意語をなすどころか、両者は相補的で分離不可能な関係にある。
 p105-6
 我々を日々縛る現実は論理的根拠があって成立しているのではない。卑近には未成年者の喫煙禁止の例のように、はじめは恣意的に定められた協約に過ぎないのに、その恣意性が忘れ去られ、時間を経たのちは客観性を帯びて我々の目に映るようになった社会的沈殿物が、「現実」の正体である。
 言語・宗教・道徳・習慣、あるいは近親相姦のタブーなどは誰かが意識的に決めたわけではない。制度が支配者によって暴力的に導入されたにせよ、最初から自然の様相をまとって開始されたにせよ、起源が忘却され、恣意性が客観性に変換されたこと自体はかわりない。