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小坂井敏晶 『民族という虚構』(ちくま学芸文庫)3/5

 支配の真の姿は隠され続けなければならない
 p108-9
 社会現象や制度は、人間が生み出したものであるのに、人間から独立して自立運動する。社会現象は人間どうしの相互関係から生まれるのに、それが総合されて客観的な外力として人間に迫る。
 商品・制度・宗教など、自己の作り出した社会的諸条件に人間自身が囚われ、主体としてのありかたを失う状況は、ふつう「疎外」という言葉で理解されている。しかし、「疎外」を人間が本来あるべき姿からはずれた状態として、否定的側面だけから把握するのはまちがっている。
 たとえば高度に自動化された商品生産の形態がその装置を作った人間の仕事を奪うような事態も確かに「疎外」であるが、いっぽうキリスト教の教会制度のように、人間が自分たちが作った外的なものに包まれながら共存する事態も、疎外概念の重要な側面をなす。
 こうしたことから、社会が成員から遊離して自立運動するかのように見える「疎外」現象は、社会的動物である人間の生存にとって本源的な正確を持っており、消滅することは原理的にありえない。
 p113 
 一定最小限の「服従意欲」、すなわち服従することに対して利害関心のあることが、あらゆる真正な支配関係の要件である(ウェーバー)。服従が強制力の結果ではなく、自然な感情として表象されるほど、支配は強固になる。支配が理想的な状態で保たれているとき、支配はその真の姿を隠蔽し、自然の摂理の表現であるかのごとく作用する。諸国を漫遊し悪代官をこらしめる水戸黄門様と、悪代官に収奪され続けてきた百姓の関係こそ、この「自然の摂理」の見事な表象である。
 p114
 民主主義社会が生まれようとしていたとき、「市民」たちはまだ社会に残っていた一部階級の特権を破壊した。しかしそれにより、かえって万人の競争があらわれた。地位を分け隔てる境界そのものが消失したわけではなく、単に境界の形式が変化したにすぎないのだ。
 不平等が社会の常識になっているときには、著しい不平等にも人は気づかない。それに対して、すべての人々がほとんど平等化されているときには、どんな小さな不平等であっても人の気持ちを傷つけずにはおかない。平等が増大するにしたがって、より平等な状態への願望はいっそう癒しがたいものになり、より大きな不満が募っていくのだ。(トクヴィル
 p116
 マルクス主義の文脈で近代人の疎外が言及されるとき、そこで問題にされるのは人間が主体性を発揮できないことであり、疎外のからくりに人間が気づかない事態である。ウェーバーも疎外を憂慮したが、彼の場合はマルクスとはまったく逆の意味をこめている。
 ウェーバーにとっては、近代になって神が死に、世界の秩序が人間自身によって作り出される事実に人間が「気づいてしまった」ために、それまで社会秩序に与えられていた超越的なものの意味が変わり、本来の恣意性があらわになってしまったことが問題なのだった。
 p127
 愚かな同一性幻想だとわかっているのに、オリンピックで日本選手が活躍するのを見て胸が熱くなるのは、いうまでもなく「私の現在」が記憶を通して日本人と称される表象と結びついているからである。ちょうど、私が身体を所有するのではなく、私とは身体そのものであるように、私の記憶とは私そのものだから、私の胸が熱くなるのだ。
 われわれが自己と呼ぶものは、外界からの客観的事実と、それに対する主観的反応とが織りなす動的なプロセスのことである。したがって、記憶は事実認知の単なる集積ではなく、何らかの構造化がなされている。このように「つねに新たに構造化され続ける自己」として記憶を捉えれば、記憶が忘却や歪曲、作り話を必然的に含むのは当然だろう。それが集団的記憶であれば「民族神話」が生まれるのはむずかしい話ではない。