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小坂井敏晶 『民族という虚構』(ちくま学芸文庫)5/5

 生命に「意味」はない。再生産を繰り返し、死ぬまで生き続けるだけである。
 その存在をどうするかはわれわれの自由にならない。

 p282
 「外部」がなければ「内部」は存在しない。この単純な理屈から言っても、<純粋な社会>の建設は原理的に不可能である。もし文化と時代を超えて人間内部を貫く本質という理念があるとしても、それはまさしく、本質と呼ぶべき内部だけがその人に備わっているわけではないということにほかならない。なぜなら、「外部」がなければ「内部」は存在しない以上、「外部」と「内部」を合わせたものがその人であるからだ。
 

 p296-7
 民族をはじめとする、さまざまな集団は頭の中にあるのか、それとも外部の実在物なのか。しかし、この二者択一的問いは、それ自体まちがっている。制度や権力構造などの所与から完全に自由な思考や表象はありえないからだ。一部の個人が考えをどう変えようが、それだけで集団現象は何も変わらない。
 変化をするモノは存在するのか。変化というと、視覚的場面をわれわれは思い浮かべやすい。しかし、聴覚の変化を考えてみると、変化の異なる相が見えてくる。音楽では、時間の経過に連れて、どんどんメロディーが移っていく。だが、音の変動をいくら分析しても、恒常的な実体は見つからない。
 本性がないならば、変化とは何の変化か。モノがなければなにかが変化するというのもおかしいし、変化しないというのもおかしい。空は無とは違う。どんな物もできごとも自存せず、他の原因に依って生ずる。これが空の意味だ。生成や変化は、空だからこそ可能であり、空でなければ、生成もないし、変化もありえない。
 小林秀雄は『モオツアルト』のなかで、ここのところを感動的な文章にした。「僕らの人生は過ぎてゆく。しかし何に対し過ぎてゆくというのか。過ぎてゆくものに過ぎてゆくものが見えようか。生ははたして生を知るであろうか。」
 p308
 時間はなぜ過去に向かって流れないのだろう。それは、過去はすべて決定されていて、再現する必要がないからだ。再現できたとして、その過去は、本当の過去と微妙に異なってしまい、過去ではなくなってしまうからだ。同様に、未来が現時点で決定されているならば、わざわざやってみる必要はない。やってみなければわからないから時間が進むのである(池田清彦)。
 数学において、ある定理が証明される瞬間は、歴史上の具体的一時点であっても、論理的には最初から公理に含まれている。そうでなければ演繹はできない。演繹とは、必然的にいたる論理の道筋だからだ。
 歴史が同じ論理構造に従うならば、世界は原初から決定されていることになる。生物の成長・進化や歴史から時間を排除すると、世界から意味が失われてしまう。
 p310
 ダーウィンは自身の進化理論からニュートンの力学法則と同型の統一的・普遍的な法則を排除した。ダーウィンが強調したのは、普遍性ではなく、状況依存的なできごとである。ある形質が適応的かどうかは、形質の側からは決まらず状況依存的であるほかない。同じ形質がある状況では有利になり、別の状況では不利になる。自然選択説の要諦はここにある。その、「ある状況」は再現不可能である。選択された種だけが残り、選択されなかった種は死滅していて、その中間種を我々は見ることができないからである。 
 ダーウィンの最大の功績は、世界の変遷に内在的理由がないことを示した点にある。歴史には目的もなければ、根拠も存在しない。
 p313
 人間の意識が集団現象を制御できないのは、各個人精神の奥底に潜む無意識が集団現象を生むからではなく、ちょうどインターネットの討論フォーラムのように、システムを構成する情報がシステム全体に散らばって存在するからだ。集中統括する場所はどこにもない。
 p315
 郵便局の過ちで、男が出したラブレターが紛失する。それを知らない男は、いつまでも届かない女からの返事の理由を、女に嫌われたからだと思い込み、後日に再び会っても彼女を避けるようになる。最初の手紙を受け取っていない彼女は、男の冷たい素振りにがっかりする。こうして一つの恋が失われる。・・・、恋が失われた合理的な根拠は二人の間には発見できない。しかし、恋の破綻という「世界」は確かに成立してしまった。それ自体としては意味を持たない社会内の揺らぎや葛藤が積算され、人間の世界に「意味」が現れる。
 p328
 カントは神の存在を前提する。この仮説なしに道徳は理解できないからだ。われわれは、社会が個人とは別の存在であることを前提する。そうしなければ、道徳の根拠が失われるからだ。しかし神と社会のどちらを選ぶかはあまり重要ではない。なぜなら、社会が象徴的に把握され、変貌したものが神にほかならないからだ。神の死によって成立した近代でも、社会秩序は根拠づけられなければならない。根拠と呼ばれる虚構が失われる世界に、人間は生きられない。
 p338(文庫版あとがき)
 生命に意味などない。再生産を繰り返し、死ぬまで生き続ける。単にそれだけだ。尊い生命とか、いのちの尊厳とか言うが、生命自体に価値も尊厳もない。死にたい人間が死んでどこがいけないのか。問題は、生命の破壊自体ではなくて死にたくない生命を他者が勝手に破壊することだ。だから、死にたくなれば、いつでも死ねばよい。
 われわれの命に尊厳がないように、わたしの人生が無意味であるように、私の子供の生命や人生も無意味なはずだ。しかし、その存在をどうするかはわれわれの自由にならない。生きるも死ぬも、この子自身が決めることだ。わたしの自由にならないが、育てる義務を負う存在。こうして他者との絆が生まれる。存在理由を問うことの許されない<外部>が現れ、わたしの命に意味が与えられる。否応なく関係せざるをえない他者の存在が、ひるがえって自己の存在を正当化する。