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ジュリアン・グラック  『シルトの岸辺』(岩波文庫)1/2

 文庫で500ページを超す大作。その全ページが「意味伝達」という言葉の一義的な機能を放棄している文体で貫かれている。とはいっても、プルーストよりもわかりやすく、ジョイスなどとは比較を絶して親しみやすい。
 ジュリアン・グラックサルトルの同時代人であり、処女作『アルゴールの城にて』はサルトルの『嘔吐』と同年1938年に書かれたらしい。私は『アルゴールの城にて』を読んだことがないが、その文体は実存主義文学全盛の時代にあって、そのような「主義」・「流派」への不信を公然と表明するものであったらしい。

 サルトルの『嘔吐』は、日本に輸入されたとき、当時の日本文学のあまりといえばあまりの微温的私小説性との違いから、とても「難解」な哲学小説として読者に衝撃を与えた。私も学生時代に読んで、一回目は何が書いてあるかよく分からなかった。しかししばらくして再読すると、『嘔吐』は、「よくわからないが、何か大事なことが書いてあるらしい」教条小説ではなくなっていた。サルトルのようにいくつかの単語を明晰に定義し、単語と単語を明確に連結してフレーズを織り上げていけば、主人公アントワーヌ・ロカンタンは暗闇の中でマロニエの醜い根元を見て、それを「自意識の根元」であると間違いなく幻視して、嘔吐しなければならないはずだということを、わりと容易に納得できた。サルトルは、時代というものをひとつの「思想」によっていわば天上からの視点があるように俯瞰できる、と考えていたのである。
 サルトルのこの途方もない自信は1952年のカミュとの論争にいかんなく発揮された。「歴史の論理」が存在するとした哲学者サルトル散文詩カミュを無残に切り刻んだのだが、しかしサルトルの時代はそんなに長く続くものではなかった。
 その10年後、1962年にレヴィ=ストロースは、「私たちは全員が、自分の見ている世界だけが“客観的にリアルな世界”であって、他人の見ている世界は“主観的でゆがめられた世界”であると思って、他人を見下している」 として、あらゆる文明が 「おのれの思考の客観性を過大評価する傾向にある」 ことを厳にいさめた。
 そしてそのうえで、「サルトルが世界と人間に向けているまなざしは、『閉じられた社会』とこれまで呼ばれてきたものに固有の狭隘さを示している。サルトルの哲学のうちには、野生の思考の多くの特徴が見いだされる。私たちの現代の神話がどのようなものかを知りたければ、おのれの思考の客観性を過大評価する傾向にあるサルトルの哲学を研究するのが不可欠であろう」 と一刀両断にし、これを直接の契機として実存主義文学はいかにも唐突に世界から消えてしまった。

 これにたいして、『シルトの岸辺』は『嘔吐』とはちがい、一冊の小説によって特定の時代の思想状況を伝えようとする意図を全く持っていない。
 『シルトの岸辺』は物語としてはとても単純である。隣の大国ファルゲスタンと外交文書上は数百年間「戦争状態」にある主人公の帝国オルセンナが、実際は一発の大砲を打つこともなく、ただその「戦争状態にある」という国民感情だけを内政維持の手段としている、・・・・そのための権謀術数と深謀遠慮の駆け引きが元老院で繰り広げられ、本国の腐敗と事大主義の縮図が主人公が派遣された前線の砦でも繰り広げられる、・・・・300年間、シルト海をはさむファルゲスタンとオルセンナはシルト海の中心線を互いの哨戒ラインの限界線としてきたのだが、そこを一海里でも超えれば前線の兵士は軍法会議にかけられるという茶番そのものの平和状態だった、・・・・このばかばかしさを「世界というものの宿命」として、読者を退屈させることなく、といってハラハラドキドキさせることもなく、緊張した文体だけの力で500ページにわたって書き綴っただけのものである。