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夏目漱石講演集 『社会と自分』(ちくま学芸文庫)2/2

文芸の哲学的基礎
 『猫』で(懸命に吠えるチンのくしゃみほどにも、その意見は世間に影響を与えない)珍野苦沙弥という警世家大先生を発明した漱石が、時間とか空間とか厄介極まりないものについて喋り散らしたもの。未来の理学博士「寒月君」として『猫』に登場した寺田寅彦のような人間が聴衆の中にいたら、漱石の怒りと皮肉はよく理解できただろうが、当時の大半の人は面白くもない落語に聞こえて寝てしまったのではなかろうか。こんな講演会があったら、どこへでも飛んでいって、涙を流しながら笑い転げて聞いてみたいものだ。というか、これだけの諧謔を交えてしゃべることのできる作家が、いまいるのだろうか。

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 われわれ下司な了見の人間はただただ生きたい生きたいとのみ考えている。とくに時代が下がって近代の人間は、生きさえすればどんな嘘でもつく、どんなまちがいでも構わず遂行するまことに浅ましい生き物ですから、「空間」というものが存在するとしなければその学者の生存上不便だと思うと、すぐ「空間」をねつ造してしまう。「時間」がないと不都合だと勘づくと、よろしいそれじゃ「時間」を製造してやろうと、あるかどうか不分明な「時間」をすぐ作り出してしまいます。
 だからいろいろな抽象や種々な仮定は、みんなわれわれ生存上の背に腹は代えられぬ切なさのあまりから割り出した嘘であります。そうして嘘から出た真実なのであります。いかにこの嘘が便宜であるかは、何百年となく嘘をつき習ってきた、末世薄情の今日では、私もこの嘘を真実と思い、あなた方もこの嘘を真実と思って、誰も怪しむものもなく、公然とはばかるところもなく、仮定を実在と認識して嬉しがっているのでもわかります。
 貧して鈍(ママ)すとも申して、生存に難儀をきたすとみんなこう堕落してまいります。要するに生活上の利害から割り出した嘘だから、年が越せないと大みそかに女郎のこぼす涙くらいな実は含んでおります。なぜといってごらんなさい。もし時間があると思わなければ、土曜に演説を請け合って日曜にくるかもしれない。お互いの損になります。空間があると心得なければ、電車を避けることもできず、交番に突き当たったり、犬の尾を踏んだり、はなはだうれしくない結果になります。
 だからこそ、これら「空間」や「時間」に存在の権利を与えないと、わが身が危ういのであります。わが身が危うければどんな無理なことでもしなければなりません。「空間」や「時間」の実在を証明してみろと力んでいる人は死ぬばかりであります。現今ぴんぴん生息している人間はみな不正直者で、律儀な連中はとくの昔に、汽車にひかれたり、川へ落ちたり、巡査につかまったりして、ことごとく死んでしまったとご承知になれば大した間違いはありません。
 すでに空間ができ、時間ができれば、われわれの意識を割いて世の中を「我」と「我以外」の二つにすることは容易であります。容易どころの騒ぎじゃない。じつは「我」と「我以外」に世の中を区別して、これを手際よく安置するために空間と時間の近代の御堂を建立したも同然なのであります。この御堂ができるや否や、待ち構えていたわれわれは西洋の誰かが発見した「意識のながれ」をつかんでは投げ、つかんでは投げ、あたかも粟餅屋が餅をちぎって黄粉の中に放り込むような勢いで投げ込んで、さまざまな作物(さくぶつ)を拵えているのであります。
 ・・・・・・・・これが例えば、昔の竹取物語とか太平記とかを見ると、いろいろな人間が出てくるがみんな同じ人間のようであります。西鶴などに至ってもやはりそうであります。つまり、空間と時間の御堂がいまだ建立されず、「意識」による「我」と「我以外」の区別も定かでなかった時代の著者には、人間が大抵ぼうっとだけ見えていたのであります。
 それが今日になると人間観がそう鷹揚ではいられない。登場人物の精神作用について微妙な細かい割り方をして、しかもその割った部分を描写する手際がないと時勢に釣り合わない。これだけの眼識がないものが人間を写そうと企てるのは、あたかも色盲が絵を描こうと発心するようなもので、到底成功はしないのであります。なんとも不自由な、そして激しい勉強がいる時代にわれわれは生まれたのであります。