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河合隼雄 『生と死の接点』(岩波現代文庫)2/2

 思春期のイニシエーション
 p272‐3
 性器や皮膚に傷をつけられる、髪の毛を引き抜かれる、歯を折られる、話をすることを禁じられる、死んだ人間として扱われる、高い場所から飛び降りることを強制される・・・・・・。これはいじめの描写ではない。臨床心理学者・岩宮恵子が紹介している未開社会でのイニシエーションの際に与えられる試練の例である。しかしさまざまなメディアから、文明社会での子供のいじめとしてこれとほとんど同じことが行われているのは、もはや誰でも知っている。
 たしかに岩宮が指摘するように、現代の思春期の子供たちがいじめとして行っている行為は、古来のイニシエーションにおいて行われた行為と極めて類似している。このことは、現代人は集団としてのイニシエーションを放棄してしまったが、無意識の中ではそれの復活を望んでいることの暗い象徴なのだろうか。少なくとも、現代人にとっても個人としてのイニシエーション体験は必要であり、その断片化されたものが無意識的に突出してきている、とは考えられる。
 大新聞はいじめ事件のたびに、「学校や教育委員会の管理はどうなっている!」と大騒ぎせずに、岩宮氏のような本当の「専門家」の知見を冷静に掲載することがなぜできないのだろう。もっとも、新聞記者の一人ひとりにそのような知力を期待するのがどれほど世間知らずなことなのか、私はやっとこのごろになって分かってきたばかりなのだが。

 臨死体験の意義
 p154−5
 最近になって蘇生術が急激に進歩したこともあって、一度は死んだと思われた人が蘇生してきて、その間の自分の体験を語ってくれることが増加してきた。いわゆる臨死体験である。それについて研究を行った精神科医レイモンド・ムーディによると、それらの報告には多くの共通点が認められるという。
 ごく簡単に述べると、そのような時、その人は自分自身の肉体から抜け出し、死に瀕している自分の姿を見る。同時に、以前に死んだ友人や肉親が迎えに来ているのがわかり、すばらしい愛と温かさに満ちた「光の生命」とも言うべきものに会う。このとき、自分の一生のできごとを一瞬のうちに思い出す人もある、という。
 私・河合はこのムーディらの報告していることは、その通りの事実であろうと思っている。私自身の患者治療のささやかな経験に照らしも、彼らの主張を肯定的に感じることが多い。ただ、そのような事実から「死後の生」の存在を主張することには論理に飛躍があると思われる。臨死体験とは、そのような現代科学では「まだ」説明できない不思議な意識状態が存在し、その意識にとっては死後生の「ごときもの」が認知されたということであって、死後生そのものの存在についてはわれわれは判断を保留すべきであると考える。
 死後生の存在を主張するときに付きまとう難点は、その実体を分節的に説明できないことである。「生前生」の実体はたんぱくを中心とした高分子物質の代謝現象のことであるが、この高分子物質は電子顕微鏡でいくらも確認できる。死後生についてはこれができないのが致命的である。
 しかしここで大切なことが一つある。このような臨死体験をした人のうち、かなりの人はその後は死を恐れなくなるという事実である。死はその人の心の中にしっかりと位置づけられ、受容されるのである。死後生について何かを知ったという確信がその人の主観に相当な安定感を与えるのだ。