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養老孟司  『大言論Ⅰ』(新潮文庫)

 東大と京大
 
東大に勤めていたころ、京大の学生に何度か講義をしたことがある。話すのが大変楽だったという覚えがある。私はやや変なことを言うから、官僚になって出世することばかりばかり考えている東大の学生には気を遣った。
 東大長男論というのがあった。当時の文部省から見れば東大は長男で、京大は次男坊だということだ。次男は多少好きにしていても親父に文句は言われない。いささかの自由が許される。だから京大で講義をするほうが勝手なことがいえるという感じだった。学生の雰囲気が違う。
 人類学者の説によれば、いわゆる権威主義は兄弟関係で決まるという。日本とドイツは長男相続だったから権威主義になる。アングロ・サクソンやフランスは兄弟まったく平等で、それがいわゆる民主主義の基礎だというのである。それなら東大長男論も、あんがい当を得ているのかもしれない。権威主義と見栄っ張りが結合したのが東大なら、学問にはどうも具合が悪い。
 ちなみにだが、サッカーの応援風景をみると日本とドイツは(韓国も)よく似ている。一辺が4、5メートルもありそうな大きな旗を何十本も整然と振り回している。ヒトラーベルリンオリンピックを思い出す年配者も多いのではないか。北朝鮮の軍パレードを連想して吐き気を催す人もいるに違いない。イギリスやフランスではそういうことはない。観客はみんな熱狂しているが、その熱狂の単位は個人や家族である。
 それはともかく京大には今西錦司という人がいた。今でもその「進化はなるべくしてなる」「変わるべくして生物は変わる」という豪快な進化論がときどき息をふきかえす。今西進化論がときどき息をふきかえすのは、ダーウィンを始祖とする自然選択説が、生き残った生物から過去の「選択の現場」を空想した「結果論」に過ぎないからである。いま生き残った生物はすべて「選択」された生物であり、どういった生物が「なぜ選択されなかったか」を誰も論証できないからである。
 この今西の同窓生は湯川秀樹朝永振一郎、桑原武雄、西堀栄三郎などである。三高の同窓生にこれほどの秀才ばかりが集まるというのは尋常ではない。教育の雰囲気だったに違いないが、長男の東大にはそういう雰囲気をつくることができなかったのだろう。その逆に、京都学派の人たちは、時代によって変わる場の雰囲気を上手につくることで才能を飛躍的に伸ばせたということだろう。世界人口の0.2%に過ぎないユダヤ人が、ノーベル賞自然科学部門の20%以上を獲得している尋常ならざる現象を、私はふと思い出した。

 脳はカオスかもしれない
 脳は小さなことでガラッと動くことがある。一卵性双生児の統合失調症の一致率は、アメリカでは40%である。つまり同じ遺伝子の組み合わせを持っていても、半分しか病気にならない。半分はいわゆる人間性の多くを失うが、残りの半分はまったく「正常」なのである。その一方で、精神科の救急医療をしている専門家は言う。トイレに入って出てきてみると、突然世界が変わっている。急性の発病とはそういうことなのだそうだ。両者をあわせて考えてみると、この脳の変化は余人にはうかがい知れない、まして現在の医学ではアプローチできないきわめて小さな偶然に支配されている可能性が高いということである。
 それなら病気になるという「悪いこと」だけではなく、キラ星のごとき京都学派を団子のように生み出す「いいこと」にも、似たことが言えるのではないか。ごく些細に見える環境の違いが、大きな脳の違いを生み出す。そういう可能性がある。それが何か、むろんわかっていない。それが「わかる」ように、人間の脳ができているか、それも「わからない」。もしかしたら、統合失調症の発病は原因と結果の間に線形の因果律が成り立たないカオスかもしれないのである。