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カーソン 『沈黙の春』(新潮文庫)1/2

 農薬公害問題告発の「古典」と言ってもいい本。著者は、DDTやパラチオン、マラソン、BHCなど塩化炭化水素系、有機リン酸エステル系の農薬を中心とした化学薬品が、50年・100年後の地球上の全生物にとても暗い影を落としていることを多くの実証データに基づいて警告する。
 「沈黙の春」とは、ものみな萌え出づるべき春になっても、生命の根幹を薬品に犯された植物と動物は生まれることができない・・・・、いまの化学薬品産業を放置したらそんなときが必ず来る、という意味である。
 塩化炭化水素系、有機リン酸エステル系の農薬は分子量が比較的小さい。分子量が小さいということは合成が容易ということだ。産業界にとっては合成のための設備投資が少なくて済むということであり、設備投資が少なくて済むということは比較的安価に製品を農家に送り出せるということである。農家にとっても、絶大な効果のある雑草退治・害虫退治を安いコストでできるのだからこれほど助かることはない。戦後にできた農協組織がこうした農薬を急速に普及させ、害虫や雑草の退治という炎天下での農作業を大幅に軽減したことは事実である。
 農村のまんなかで育った私が小学生だったとき(1950年代後半)、初夏になって稲穂が出始めるころになると、近所の田んぼじゅうで今考えればあの恐るべきパラチオンを、簡易マスクをつけただけの農家の主人夫婦が噴霧器で散布していたものである。パラチオンが猛毒性を持っているとは子供も聞かされていたが、そのパラチオンの霧がうっすらと臭うなかを、私たちは鼻に手を当てるだけで毎日小学校と家を往復していたことをよく憶えている。

 人間などすべての胎生動物には、脳や胎盤に関門があり、自分や胎児に有害な物質が侵入できないようになっている。たとえば脳腫瘍になっても、医者は手術後も抗がん剤を投与しない。それは、投与しても脳の関門が薬を通さないからである。ただしこの関門が機能するのは抗がん剤のような分子量の大きな物質に対してだけである。これと同じことは母親と胎児をつないでいる胎盤の関門についても同様である。この関門によって、分子量の大きな有害物質が母親から胎児に届いてしまうことを防いでいる。
 しかし、分子量の小さな薬物はこの限りではない。簡単に合成できる低分子量農薬は脳や胎盤の関門をフリーパスできるのだ。塩化炭化水素系、有機リン酸エステル系の農薬の怖さはここにある。この農薬にさらされた田畑や森にすむ動物、そして害虫退治のために農薬を散布した農業従事者の子孫まで、胎盤の関門を通過した農薬によって簡単に汚染されてしまうのである。
 私が小学生だった時の農家の主婦が、パラチオン散布後に一時的に気分の悪くなることはしょっちゅうあっただろう。しかしその主婦がもし妊娠中だったとしたら、胎児の脳や筋肉、骨格にまでパラチオンの悪影響が及んでいるとは考えもしなかっただろう。(ちなみに、睡眠導入剤を含む向精神薬の分子量もかなり小さい。合成は簡単であり、薬価は安い。そして脳関門はするりとくぐりぬける。だからこそ「向精神」薬なのである。)