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ウィングフィールド 『クリスマスのフロスト』(創元推理文庫)

 いくつもの事件が時間差攻撃のようにほぼ同時に発生し、それを刑事が追いかけていく小説をモジュラー型警察小説と呼ぶそうだ。『クリスマスのフロスト』はその典型のような作品である。刊行の1974年、ロンドンの新聞書評でも「・・・・・巧みに配された謎、たるみのない筋運び」と紹介されたらしいが、少女誘拐事件を核にして窃盗や詐欺、銀行押し込み未遂などの事件が互いに関係しながら彩りよく盛り込まれていて、文庫500ページをまったく飽きることなく読ませてくれる(訳者解説)。最後半にたった一か所だけ、中心となる事件の謎ときの一部に分からない説明があったのだが、まあたいしたことではない。
 この作品の魅力は主役ジャック・フロスト警部の人物造形にある。ジャック・フロスト警部はなんとも不器用で恰好の悪い主人公である。レイモンド・チャンドラーが造形したフィリップ・マーロウのような「タフ」な男では全然ない。そのかわりに「世界のことは何でも知っているぞ」というような悪臭のあるきめ台詞を一切口にしない。フロスト警部が、苦手な書類仕事を放っておいて捜査会議で喋り散らすのは、女とバカと上昇志向人間に対するきわどい冗談ばかりである。
 もちろんフロストも自分の規範に照らして行動するのだが、そこにはマーロウのような「己の生き方を貫く」というような力強い動力源はみじんもない。なにごとも結果オーライ、徹底的に肩の力が抜けているのである。このあたりには、前世期中―後半のアメリカ、本当に世界を支配しつつあると思っていたアメリカと、その20年くらいあとのイギリスの違いがよく出ているのだろう。建国200年で世界制覇を成し遂げたと本気で思っていた精神年齢18歳の国と、200年以上も世界に君臨しつつも、「それは大人としてあまりカッコいいことじゃないのだ」と悟った国の違いが。
 以下は、この小説の本筋とは何の関係もないが、老婆を横断歩道の上で轢いてしまった若者について、フロストが新米刑事クライヴに漏らした言葉。フロスト警部=作者ウィングフィールドの諦観がよく出ている。

p358−9
「運の悪い男だ」フロストはつぶやくように言った。彼にしては珍しく、心から気の毒そうな顔をして。
「運が悪い?」クライヴは怪訝な面持ちで訊き返した。
「ああ、そうさ。おれだってこれまで車を運転しながら、何度も人を轢きそうになった。轢かずにすんだのは、ただ単に運がよかったからさ。あの若者には、その運がなかった」
「運がなかったのは、轢かれた老婦人のほうでしょう」
 フロストは鼻を鳴らした。「おまえは情が薄いな。ほんと、薄いよ。おれだって、轢かれた婆さんは気の毒だったと思う。だが、あの若造も気の毒だと思うね。ほんの一瞬、前のほうに注意を向けるのを何かの拍子に忘れたんだろ?誰にだってそういうことはある。それでも、あの若者は処罰を食らうことになるんだ。法による正義という、ただの言葉によってね。おそらくは後半生を決めてしまうかなり厳しい処罰をな。あの若者には、運がなかったんだよ。」