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[スティーヴン・グールド 『ダーウィン以来』(ハヤカワ文庫NF)1/3

 スティーヴン・グールドはとてもまともなダーウィン主義進化論者である。訳者によれば、彼は30歳そこそこでハーヴァード大学の地質学教授になった秀才だが、彼をたんに自然科学者としてだけでなく、社会何々学など人文科学方面でも世界的に有名にしたのが、彼が35歳のころに書いた『ダーウィン以来』らしい。
 この本はもともと「ナチュラル・ヒストリー・マガジン」という古生物学会の雑誌に連載したエッセイを1974年から3年分まとめたものから成っている。本にまとめたとき各章を初出連載の1回分にしており、この文庫本では400ページくらいが33章にも細かく分かれている。しかも各章はゆるい関連でしか結ばれていないので、読者はどこの章から読んでも意味が分からなくなることがない。グールドを初めて読む人にはとっつきやすい構成のしかたといえる。
 この読者に対する心配りが、何の嫌味もなくなされていることが、本書をベストセラーにした重要な要因だろう。と同時に、ダーウィン進化論の現代的意味を読者に深く印象付けることができたことにも大きくかかわっているに違いない。
 サイエンスライターとしての才能にも恵まれたスティーヴン・グールドの視野は非常に広い。しかしその視野に入ってくる、一見ダーウィンに基づいているかに思わせる似非科学理論を見極める目はとても厳しい。本書32章「遺伝的可能性と遺伝決定論」において展開された、E・O・ウィルソン『社会生物学』という当時話題の遺伝決定論に対するジェイ・グールドの筆鋒の鋭さには、知性の仮面をかぶったポピュリズム社会理論を許さない非情なものがある。

 p405−16 第32章 「遺伝的可能性」と「遺伝決定論」は全く違う概念である
 リンネにとってホモ・サピエンスは特殊なものであって同時に特殊なものではなかった。ホモ・サピエンスを単なる動物に中に入れるべきか、それとも人間のために特殊な地位を設けるべきかリンネは大いに悩んだ。・・・・・・しかし不幸なことに、リンネの悩みはのちの多くの注釈者によって二分され、対立させられ、完全にゆがめられてしまった。
 一例をあげれば、(いまをときめく)E・O・ウィルソンの『社会生物学』のなかでは「人間が特殊であって特殊でない」とは、その人の能力が「遺伝的であるか遺伝的でないか」とか、「氏か育ちか」ということを意味するようになってしまっている。馬鹿げた話である。ヒトは動物であって、われわれのなすすべてのことが遺伝的「可能性」の範囲内にあるのは分かりきっていることだ。しかし人間は動物であるという言明は、われわれの行動が遺伝子によって「決定」されている、ということを意味しているのではない。(高校生でもわかるように)可能性と決定は異なった概念である。
 ・・・・・・・・・・、ウィルソンは『社会生物学』第27章で強い主張をしている。この章は主として人間の行動における特異な、変異性に富んだ形質に関する遺伝子が存在することを考察したものである。その形質とは悪意、攻撃性、外国人嫌い、画一性、同性愛、西洋社会における男女の行動上の差異等々である。もちろんウィルソンは、人間の行動における学習の役割を否定はしない。彼はあるところでは、「遺伝子はその主権の大半を学習に譲渡してしまった」とさえ述べている。ところがそのすぐ後で「遺伝子は、人類の異なる文化の底流に横たわる行動上の諸特性に一定の影響を及ぼしている」とつけくわえることを忘れない。
 ・・・・・・・・、ウィルソンの言う、人間の特定の社会行動が遺伝的にコントロールされている証拠として何があるのだろうか。人間の交配実験を規格化した状態で行ってそのような証拠を手に入れることは、不可能ではなかろう。しかし、人々をショウジョウバエ飼育瓶の中で育てたり、純系を確立したり、同じように養育するために環境をコントロールしたりはできない。
 ・・・・・・・、遺伝決定論をめぐってはげしい論争が生じたのは、その社会的・政治的メッセージの働きとしてであった。遺伝決定論はつねに、現存する社会制度を生物学的に不可避のものであるとして擁護するために利用されてきた。「お前たちが貧乏なのは、お前たち自身の責任だ」というものから、19世紀の帝国主義や現代の性差別論にまでおよぶ一連の議論を、社会体制側にたって擁護してきたのである。・・・・・・、過去の世紀に唱えられた粗雑な遺伝決定論は完璧に反証されてきたし、いままた唱道されつつある新しい遺伝決定論を支持する証拠は、人間を飼育できない以上、何もない。
 しかしながら遺伝決定論は生まれるたびに常に俗受けしてきた。それは既成の秩序を維持してゆくことによって利益を得る人たちが抱いている偏見のなせるわざだからである。そして「既成秩序の維持によって利益を得る人たち」とは、なにもエスタブリッシュメントにかぎったことではない。変化するための考えを停止し、ある固定状態に身を置くことは、私たちだれしもにとって快適だからだ。