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スティーヴン・グールド 『ダーウィン以来』(ハヤカワ文庫NF)2/3

 p56−63 第3章 ダーウィンはダーウィニズムなど唱えていない
 ダーウィンの進化説はきわめてシンプルなものである。「生物進化は生物と環境との間の適応を増大させる方向に進む」というだけのものだ。ダーウィンは、「構造の複雑さとかいうことで定義される進歩」という抽象的な理想については何も語ってはいない。
 ダーウィンは高等とか下等とかは決して言うな、とほとんどただ一人で主張していた。なぜならダーウィンの見解は、「進化と進歩とが必然的につながっているという考えは、人間を中心に考える偏見の中で最も悪質なものだ」ということであったからだ。
 われわれ科学者の古い仲間がダーウィンの忠告に耳を傾けていたなら、今日の人々の間にある混乱や誤解の多くはなくてすんだであろう。けれどもダーウィンのように考えなかった科学者が数多くいたおかげで、一般の人たちはいまだに進化と進歩を同一視し、人類の進化を単なる変化ではなくて、知能や背丈等の彼らが改良と思い込んでいる何らかの「意義ある変化」と定義している。
 ・・・・・・生物の進化をこのように誤って進歩と同一視することは今なお続いていて、好ましくない結果をもたらしている。歴史的には、社会ダーウィニズムという害毒を生じたことがその一例である。この悪名高い理論は、さまざまな人種や文化を、進化上の到達度という架空の規準で格付けしたものである。当然の帰結ながらこの理論ではヨーロッパの白人が最高位に据えられ、かけらが征服した植民地の人々が最下位におかれた。今日でもこの考えは、「われわれ人間は、この地球に棲んでいる100万種以上にのぼるほかの生物と同じ仲間なのではなくて、それらを支配しているのだ」というわれわれの信念と思い上がりを生み出す何よりの理由になっている。この社会ダーウィニズムを誰よりも疑惑の目で見ていたのがダーウィン自身であるということはあまりわれわれに知らされてこなかった。

 p69−71 第4章 ダーウィンへの引導は早すぎる
 「創造的な力としての自然淘汰」の概念は、ダーウィンの時代の社会的・政治的風土に支持されて作り出された幻影以外の何ものでもない。世界制覇に成功した大英帝国において、ヴィクトリア朝の楽観主義が猛威を振るっていたときには、どんな変化でも本質的に進歩であるとみなされた。すなわち、自然における生き残りと改善された生体デザインという非同語反復的な意味における適応度の増大は、当時においてはまったく同一のことがらであるというわけだった。
 しかしながらこの時代に発表されたダーウィンの理論は、彼の生きている間には社会に認めさせることができなかった。自然淘汰説は1940年代まで勝利をおさめなかったのである。ヴィクトリア朝時代において、一見歓迎されるかに見えるダーウィンの説が広まらなかったのは以下の理由によると思われる。
 彼の自然淘汰説は形態、生理、生活の「全体的な進歩」を、進化の営みにおける本質的なものと認めなかった。自然淘汰説は変化している環境への「局地的な」適応の理論である。自然淘汰説は生物として完成に向かう原理も、全体的な改良も保証しない。要するに、自然は内在的に完成に向かって進歩するものだという考え方を喜ぶ「世界帝国の得意絶頂の政治風土」において、ダーウィンはそれを全面的に肯定する根拠を何も提案しなかったのである。
 適応度についてのダーウィンの規準は、同時代の英国人がこのんだ「宇宙的な意味における改良」ではなかった。ダーウィンにとって改良とは、単にその生物が生きる「局地的な環境に対してよりよくデザインされている」という意味でしかない。局地的な環境は、雨量も気温も絶えず変化する。自然淘汰による進化とは、この変化する環境に棲むためによりよくデザインされた生体になり、変化する環境の後を追うということ以外のものではない。マンモスの長い体毛は嵐の雪原においてこそ意味があるのであり、宇宙的な進歩ということでは何の意味もなさない。・・・・・・こういう理論がヴィクトリア朝時代の自足した人々に受け入れられるはずはなかった。