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イザベラ・バード 『イザベラ・バードの日本紀行』上巻(講談社学術文庫)2/2

 p425−8 秋田・大館にて 
 誠実さと礼儀正しさ
 わたしは、日本の宿屋の経営者は、外国人に対しては日本人よりも高い料金をとってもいいと思います。なぜなら日本人なら六人から八人が喜んで泊まる一室を外国人は一人で占領し、室内で水を使えるようにしろとか、変な料理を変な時間につくれとか、全般に日本人より迷惑をかけるのですから。
 これまでのところ、わたしはまったく宿屋のあるじの味方です。一部のイギリス人や多くのアメリカ人を恥ずかしく思っています。彼らは、日本人が使うよりはるかに上等でしかも多くの、布団、火鉢、お湯、行燈、お変わり自由のご飯とお茶を手に入れて、しかもチップのことは念頭にないのですから。これらすべてを含めて、外国人は日本人と同じたったの七ペンスしか払わないのですよ。蚤と臭気を除けば日本の宿泊設備は驚くほどすばらしく、世界のどこに行っても、同じような辺鄙なところでこのような宿は得られないと考えるべきでしょう。
 
 国全体の均質性
 この国の均質性には大いに興味を引かれます。各県の方言だけは中央の地域とかなり異なりますが、どこに行っても建物の屋根や寺院は同じ設計で建てられています。壁や屋根の材料は地域で変化がありますが、住宅の内部はどこでも大変似ています。作物は土地と気候で変わりますが、栽培方法には差異がありません。施肥その他の手順はいつも同じです。またこれらすべてをはるかに超えて、あらゆる階層で社会を取りまとめている礼儀作法は実質的に同じです。秋田の人夫は田舎者でも、東京の人夫と同じく、他人との付き合いにおいて礼儀正しく丁寧です。
 今夜、秋田のここでは何千とある他の村々と同じように、男たちは仕事から帰宅して食事を取り、たばこを吸い、子供たちの相手をし、縄をない、わらじをつくり、竹を割り、蓑を編み、お金のかからないちょっとした便利なものをつくって夜の時間を過ごしているのです。酒屋に人が集まることはまったくありません。人々は家庭生活を楽しんでいるのです。私たち英国人が、おそらく他のどこの国の人々も、最も不得手とする夕刻の時間の過ごし方がここにはあると言えるでしょう。
 わたしは戸数七一の小さな静かな村の通りを眺めて気持ちのいい夕べを過ごしました。掲示板、お寺、崩れかけた祠、婚礼と葬儀、警察の巡回、小さな醜聞、迷信と無知―――ここはこういったものから成る小さな世界ですが、これが日本の大部分をなしているのです。法律がここでも首都においてと同じく強力であることは注目すべきことであり、十年前に成った新政府の権力だけではない、無意識の国民合意に基づく何かが一千キロを超える地にまで浸透しているのです。

 本書のところどころで、彼女は大英帝国のレディーとしてキリスト教の教義的な優位性を信じつつも、東北の庶民の心根の優しさに触れたときに自分の信念がわずかにぐらつくのを正直に告白している。たとえば―――――
 p470−1 秋田・黒石にて
 この異教徒の地にいると厳粛な疑問が数多く湧いてきます。故国では生じない、生じたとしてもはるかにかすかな疑問の数々なのですが、ひとりで人力車に乗っていると、つぎつぎに湧いてきました。「ひとりなる父」は何百万といる(日本人という)異教徒の子孫の救済を、利己的でケチで動作の緩慢なわたしたちの教会にまかせきったのだろうか。
 ・・・・・このような人々に混じって暮らし、彼らの単純素朴な徳と単純素朴な不徳を知ると、農夫の蓑の下で鼓動を打つ心がいかに優しいかを知るのです。その一方で、これら3400万の人々のうちキリストを知る人がいかに少ないか、さらにキリストの真の教えはその少ない人々にもいっこうに伝わっていないことに気づかされると、だれでも疑問がひとりでに湧いてくるのではないでしょうか。それは、「全世界を裁くお方は正しいことをなさらないのでしょうか」という疑問です。