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オルテガ・イ・ガセット 『大衆の反逆』(白水社)2/2

 p144 満足しきったお坊ちゃんの時代
 平均人というこの新しいタイプの人間の心理構造を、社会生活の方面からだけ研究すると次のようなことが見いだされる。
 第一に、平均人は生まれたときから不思議な楽観を持っている。生は容易であり、ありあまるほど豊かで、なんら悲劇的な限界を持っていないという根本的な楽観である。彼らの中には漠然とした支配と勝利の実感がある。
 第二に、この支配と勝利の実感が彼にあるがままの自分を肯定させ、自分の道徳的財産や知恵の財産は立派で完璧なものだと考えさせる。この自己満足の結果として、彼は外部からの働きかけに対して自己を閉ざし、他人の言葉に耳を傾けず、自分の言葉を疑ってみることもなく、他人の存在を考慮しなくなる。だから彼は、この世には彼と彼の同類である平均人しかいないかのように振る舞うことになる。
 したがって第三に、彼はあらゆることに介入する。なんらの配慮も内省も遠慮もなしに、つまり直接行動という満足しきったお坊ちゃんあるいは単なる野蛮人の方式に従って、自分の低俗な意見を押し付けることになる。

 上の「満足しきったお坊ちゃん」とか、「生きることになんの制約も見出さない平均人」などは、この2,30年の日本のことを言われているみたいで、まことにごもっともである。教師に「勉強はなぜしなくちゃいけないんですか?」と真顔で尋ねる小学生、その子が鉄棒の逆上がりができず落ちてしまうと、「なぜ学校は子供に恥をかかせるの」とどなり込む母親・・・・・などはヨーロッパにはすでに80年前からいて、オルテガを悩ませていたのだ。
 しかし一つだけ気になることがある。オルテガが、19世紀のヨーロッパに人口爆発をもたらした「三つの原理」のうちの一つに自由主義デモクラシーをあげていることである。自由主義デモクラシーは「原理」ではなく「結果」であるというのは、「知的平均人」でも自明のことではないだろうか。ニュートンらの基礎科学の確立が17世紀にあり、18世紀には応用科学や実験科学が進んで各方面の技術が発展し、それによって食糧増産や医療技術の向上につながり19世紀の人口爆発を生んだことを、本書を読む人で知らない人はいまい。
 この人口爆発産業革命の本格化は同じ時代の同じ社会現象の二つの側面である。この時代の賃金労働者の収入は今から見ればひどいものだった。しかし人口が増えない、つまり子供を養えないその前の時代はもっとひどいものだった。それが、設備の機械化で生産性が上がると、その余沢は少しずつ労働者に回されるようになった。
 農村でも事情は同じだった。中世の小作農に対する富農や貴族の収奪は、小作農の子供の命を(間引きによって)容赦なく奪うものだった。それが産業革命によって鉄の農機具が出回り始め、農地はより深く耕されるようになると、収穫量が漸増していった。また鉄製の器具によってそれまで耕作不適だった土地が開墾されるようになり、小規模ながら自分の土地が持てる農民が増えていった。自作農民に子供が増えていくのは自然のことだった。
 小規模自作農や工場労働者の生活力の向上が彼らの政治・社会意識の向上をもたらした。啓蒙主義思想が世の中に一定の位置を占め、フランスでは革命・反革命が繰り返された時代でもあった。爆発的に数を増やし、わずかではあっても生活力を確保しつつあった小規模自作農や工場労働者が自由主義デモクラシーを求めたのは、ごく当然の流れだったろう。
 ただし、この自由主義デモクラシーを求める時代の流れは北部ヨーロッパだけのものだった。カトリックの軛によっていかんともしがたいほど遅れていたイベリア半島では話は別だった。オーウェルの『カタロニア賛歌』にもヘミングウェイ『誰がために鐘はなる』にも、北部ヨーロッパの「規律」が欠けたイベリア社会、ほとんど土俗宗教に近いカトリック教会の圧迫がいやというほど描かれている。なにせ中米と南米を荒らしまわるだけ荒らしまわって、そこの民衆と首長を生きたまま金網の上で丸焼きにしたカトリックたちの国である。
 オルテガは一応哲学者ということになっているが、本質的には20世紀初めのスペインの遅れと政治的混乱を嘆く警世家だったのだろう。「すぐれた少数者の導くスペイン」を求めるオルテガの志は高いが、その訴えは(両親の血を引いたのか)残念ながらとてもジャーナリスティックである。この本をヨーロッパでもっとも改革が進まない国のプロパガンダの書として受け止めた人も多かったにちがいない。少なくともシュテファン・ツヴァイク『昨日の世界』のような、戻らない時代を惜しむ悲痛の念がこの本にはない。