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ロス・マクドナルド 『さむけ』(ハヤカワ文庫)

 アメリカのミステリー小説というのはあのレイモンド・チャンドラー以外に読んだことがない。そのレイモンド・チャンドラーの創りあげた名探偵フィリップ・マーロウは、本作『さむけ』の訳者でもある小笠原豊樹に言わせれば、「20世紀前・中期の非情な時代に夢を持ち続ける誇り高き男」だった。小笠原豊樹はそう言っているが、わたしにとってフィリップ・マーロウは、「人生のことは何でも知っているぜ」と顔に書いてある、口と頭だけがくるくる回るいやなアメリカ男にすぎなかった。地面を掘ればどんな資源でも無尽蔵に眠っていて、戦争をすれば負けたことがない、いまや旧宗主国大英帝国さえ自分たちの顔色をうかがう国の自信過剰の男だった。
 もっとも、レイモンド・チャンドラーを好きな人は、フィリップ・マーロウのことを「もっともロマンチックでない時代に生きるもっともロマンチックな男」だと言うらしい。「ロマンチック」が、「カオスの世界を自分に分かる部分だけ拡大解釈する性情」だとすれば、フィリップ・マーロウがロマンチックだと言えないことはない。村上春樹もどこかでそんなことを書いていたように思う。
 レイモンド・チャンドラーは大御所だから、本作『さむけ』の作家ロス・マクドナルドも若いころ大きな影響を受けたらしい。しかし、『さむけ』の探偵リュウ・アーチャーに、フィリップ・マーロウのような強い体臭はまったくない。リュウ・アーチャーは「こういう時代なのさ」とか「もっとタフじゃなくちゃ生きていけない」とか「女はタフだけを求めない」とかいったセリフは一切口にしない。
 470ページのかなり長い小説だが、一気に読み切ってしまった。わたしはミステリー小説では犯人が最初から分かっているタイプが好きだが、この作品では最後の10ページまで分からない。最後までロス・マクドナルドは、リュウ・ア−チャーには自分の好みや家族のことやときの政治を一切しゃべらさずに、子供を支配したがる母親、夫と妻それぞれの姦通、WASP上層社会の偽善、日本に半世紀先行する家族崩壊などを、すべて登場人物の会話の中で見事に描き出している。作家の「神の視点」が出てこないのはさすがの力量である。