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オリヴァー・サックス 『火星の人類学者』(ハヤカワ文庫NF)1/2

 作者オリヴァー・サックスは、大ヒットした映画『レナードの朝』の原作を書いたコロンビア大学の神経学・精神医学教授。映画では彼しかできないだろうというロバート・デ・ニーロの演技力に脱帽した。脳の小さな部位を病むということの、一般人には想像もつかない恐ろしさがひろく全世界に知られるようになったのはこの映画作品以来らしい。
 こういった神経生理学にかかわる人間の奇妙な行動を、興味深くしかもシリアスに、感動的な物語に仕立てて語らせるとしたら、オリヴァー・サックスとラマチャンドランが世界の双璧ではなかろうか。
 この『火星の人類学者』にも、レナードの「嗜眠性脳炎」に劣らない驚異に満ちた症例を持つ人たちが7人も登場する。

 まず交通事故で突如全色盲になってしまった画家。色彩の中に生きてきた画家が突然すべての色を失うとどういうことになるか。それは単に食物も空も妻の顔も、世界が全部灰色になるという単純な話ではないということが、患者がたまたま天賦の表現力を持つ人物だったという偶然によって詳しく解明されていく。

 続いては、大きな脳腫瘍によってある時期以降の記憶を失い、1960年代に閉じ込められてしまった「最後のヒッピー」・グレッグ。彼の腫瘍は左右の側頭葉の内側部分、とくに海馬とそこにつながる部分を強く圧迫するか損傷していた。

 3番目はトゥレット症候群の外科医。トゥレット症候群は、痙攣性チック、他人の言葉や動作を無意識に繰り返し、それに衝動的な罵言や汚言を投げつけることを特徴とするが、この外科医・ベネット博士は手術中はトゥレット症候群を抑えることができる。このいわば「人格変化」は、その人が高度な専門的技術をを身につけている場合、十分にありうるものらしい。オリヴァー・サックスは彼の患者である有名な性格俳優の中に同じ変化をよく見るという。その性格俳優は舞台以外では激しいトゥレット症候群を示すが、演技を始めるとトゥレット症候群は消えてしまうそうだ。

 4番目は幼いころに視力を失ったが中年近くになって新妻の勧めで手術を受けて再び「見えるようになった」ヴァ―ジルという男性。見えない世界で少年期以降の人生を形成してきた人間にとって、「見える」ということがどんなに「異常な」ことであるか。たとえば、見えないとき触覚で理解していたスプーンと視覚で理解するスプーンはまるで違うものである、妻の顔も庭の芝もテーブルも何もかも「異常なものにしか見えない」・・・・といった悲劇が読む人の心を打つ。

 

 5番目は画家・フランコ。一瞬見ただけの光景を何年間も覚えていることができ、しかもその光景を視点の高さや角度を変えながら記憶しカンバスに再現できる驚異的な能力を持っている。ただしかし彼のその能力が向けられた対象は、故郷イタリア・トスカーナの小さな町ポンティトだけだった。ポンティトについてならフランコは教会の鐘の音、栽培されていたナッツやオリーブの匂い、教会の塀に絡みつくツタ芳香とカビの匂いなど、幼いころの複雑な感覚を「一瞬のうちになされる全状況の記録」として、いつでも思い出すことができた。
 このような状態のときは「意識の二重性」が起きているらしい。側頭葉癲癇患者に時たまみられる状態だが、この症候群が非常に天才的な現われ方をした例にドストエフスキーがある。この症状の発現期には、彼は感情的な反応がとてつもなく深くなり、鮮烈で生々しい夢や発作のような幻覚、神秘的な啓示と、自分の身体がどこかに転送されるような感覚を覚える。この症候群を「ドストエフスキー症候群」と呼ぶ人もいる。
 芸術家なら誰でも知っている通り、この意識の状態は本質的には意のままになるものではない。プルーストが最も重視したのも、この「意識の二重性」だった。プルーストにとっては、意図的な思い出は概念的でありふれた単調なものだった。意のままにならない想い出、深奥から突然湧き起ってくる思い出だけが、子供時代の無邪気さと驚異と恐怖を余すところなく伝え得る。だからこそプルーストは壁にコルクを張った静かな暗い部屋で、あるいは恍惚とした夢想状態で、思い出が沸き起こってくるのを待つのだった。(p221‐3)

 

 6番目は小学生のころから、特に複雑な大建築物の絵に特別の才能を見せた自閉症の少年スティーブン。「彼はまた、早くから絵画以外の分野でも特殊な才能を発揮していた。言葉を覚える前から、物まねの名人だった。歌の記憶も抜群で、覚えた歌を正確に歌った。どんな動きでも完璧に真似ができた。8歳で文脈や内容、意味とは無関係に、非常に複雑な視覚、聴覚、運動、言語のパターンを把握し、記憶し、再現できた。」