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コンラート・ローレンツ 『人 イヌにあう』(ハヤカワ文庫NF)

 コンラート・ローレンツは、自分が飼っているカラスを肩に乗せて、目ヤニなどを取らせても目をつつかれる恐怖はまったく感じなかっという、あまりないタイプのノーベル賞動物学者である。自分という人間が動物の心に鏡にどう映っているかを正確に感じ取り、読んだ空気を乱さずに行動できる類いまれな人だった。
 彼は動物たちとの心を開いたコミュニケーションなくして動物を知り尽くすことはありえないことを、まさに身を以て実証した人であるが、しかも、彼はそうした動物たちが属する「自然」の大切さを主張し、文明の横暴を告発するだけの学者だったのではない。  (野生)動物は自然そのものである。自然の中には「善いもの」や「悪いもの」というカテゴリーはない。ローレンツの代表著作である『攻撃――悪の自然史』には、「個人的友情をむすぶ能力があって、しかも攻撃性をもたないという動物は、まだひとつも知られていない」という有名な一文がある。まさに、友情も攻撃も、それらは自然の中に「ただ存在する」のであって、そこに善悪の価値判断を持ち込むのは人間の偏見にすぎないことが端的に述べられている。
 この本は、何十頭もの犬や猫、ウサギやネズミ、家禽たちとともに暮らしたローレンツが、とくに犬と猫の本能的行動や演技的行動、表情の意味、種の異なる個体間の気持ちの通じ合わせ方などについて、アメリカ動物学のように統計学機械的でもなく、かといってもちろん擬人的・情緒的に解釈するでもなく、オリバー・サックスのようにその動物個体の行動心理観察をたんたんと述べたものである。(ただし、訳文が原文逐語的にすぎるのか、日本語として少々煩雑で、ローレンツ本来のスパッとした切れ味に乏しいのが難点といえば難点である。)

 p180
 私は、動物を感傷的なやり方で擬人化することを好まない。動物愛護協会あたりから発行される雑誌で、ネコとダックスフントコマドリが同じ皿から食べている写真や、シャムネコと小さなワニが隣り合わせに座っている写真の下に「親友たち」とかなんとかいう見出しがついているのを読むたびに、私はいささか気分が悪くなる。なぜなら、異なった種の間に見られる真の友情は、人と動物の間にだけに極めてまれに見られるものであり、動物同士の間ではほとんど成立しないからである。
 ・・・・・異なった種の動物においてこの感情がめったにかきたてられないのは、おおむね「言語の障害」による。異なった種の動物の間では、そのどちらも相手が示す脅しとか怒りなどの最も重要な表現運動についてさえ、生得的理解を持たないからである。人間でさえ、その人が無類の犬好きを自認している場合でさえ、愛犬の脅しとか怒りなどの表現をこまやかに理解していることはあまりない。だからときどき、イヌ愛好家が自分の耳を疑う悲劇が起きるのである。
 p276
 愛玩犬はしばしばへつらうような態度をとる。主人にしばしば、うやうやしく尻尾を振る。厄介な問題の根元がここにある。そのような場合イヌは人間が触れるのを避けようとしているのかもしれないことは、経験を積んだ観察者しか気づかない。イヌが主人の下でますます低くうずくまってしまうのは、自分を撫でようとする手から逃れたいからだとは、一般のひとは気づきにくい。
 しつこい人間が不用意にも自分の気持ちを押し通し、実際に触れようものなら、おびえたイヌは自制心をなくして、人間が攻撃してくるとみなして電光石火のようにかみつくことになる。そして人間のほうでは、最初は尻尾を振ったくせにと言って、おびえたイヌを非難するのである。イヌではなく人間だけが、異なる種の間の理解がむずかしいことを「理解」できるのに、この主人はそうした人間だけの能力発揮を怠ったのだ。