アクセス数:アクセスカウンター

日高敏隆 『動物と人間の世界認識』(ちくま学芸文庫)1/2

 地球上のすべての生物に共通な「客観的」環境など存在しない。――このことをこれほどわかりやすく簡潔に書いた本はないのではなかろうか。著者・日高敏隆氏はコンラート・ローレンツらの動物行動学を日本に根付かせた研究者であり、多くの外国語に堪能であったことから、ローレンツやユクスキュル、シュテンプケらの非常に多くの著書を翻訳された元京都大学教授のかたである。20世紀末話題になったドーキンスの『利己的な遺伝子』を翻訳したのも日高氏である。
 日高氏が言うとおり、「すべての動物はその動物の知覚神経系に支配されたやり方でしか世界を認識できない。アメーバはアメーバの、モンシロチョウはモンシロチョウの、イヌはイヌの知覚神経系の枠があり、その限界の中で自分たちにとって意味のある世界を構築し、それに対応した行動をとることで生きることができている。それは人間も例外ではない。」
 死ぬべき自分という「意識」を持ってしまったことは動物と人間を大きく隔てることになったが、それは人間が高等だ、動物が下等だということではない。人間が対外行動に関する本能の多くを失って、それと同時に「意識」というものを獲得した結果、いまの人間があるだけである。幸か不幸か人間は意識という発達した神経系を持たされたのであって、誕生後わずか5万年しかたっていない私たちがアメーバやモンシロチョウやイヌより世界に「適合」しているという証拠はどこにもない。
 この本のはじめの方に、ユクスキュルが1930年代に発表した『生物から見た世界』の一節が採録されている。ほかの多くの読者も同じだろうが、わたしが(ほかの本での引用からだったが)、動物の「環世界」というものを知らされたのは、そこに書かれているダニの特異な「世界認識」の仕方だった。ダニはこの世界の中で、酪酸の匂い、37度前後の温度、体毛が生えていないこと、というたった三つのことにしか興味がないという。

 p36−7
 森の茂みには小さなダニがとまっている。この動物は哺乳類の生き血を食物としている。ダニは適当な灌木の枝先によじ登り、そこで獲物をじっと待つ。たまたま下を哺乳類が通ると、哺乳類の酪酸の匂いをいキャッチして、ダニは動物の身体の上に即座に落下して取りつく。
 ダニは敏感な温度感覚を持っている。自分が(摂氏37度前後の)温かいものの上に落ちたことを知ると、今度は触覚によって毛の少ないところを探しだし、口を突っ込んで血液を吸う。その栄養によってダニは卵をつくり、子孫を残す。
 ダニを取り囲んでいる巨大な環境の中で、哺乳類の体から発する酪酸の匂いとその体温と皮膚の摂食刺激の三つだけが、ダニにとって意味を持つ。いうならばダニにとっての世界はこの三つだけで構成されているのである。森の中に満ちている空気の流れ、日射温度、植物の匂い、虫の歩く音、葉擦れの音などはダニにとって意味を持たない。
 動物一般にとって「客観的環境」などは存在しないのである。それぞれの動物が主体として、まわりの事物に意味を与え、それによって自分たちだけが構築している世界が彼らの環境なのだ。つまり、環境はただ彼らを取り囲んでいるのではなくて、彼ら主体が知覚神経系の枠の中で意味を与えて作り上げた、彼らだけの世界なのである。