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日高敏隆 『動物と人間の世界認識』(ちくま学芸文庫)2/2

 p140−4
 もちろん人間にも知覚的な「枠」がいろいろある。たとえば超音波は人間の耳には聞こえない。人間は超音波がどのようなものかを感じることができない。
 人間は、超音波というものがあることは、いろいろな方法で証明することができる。機械によって振動数を落とせば、それを聞くこともできる。けれどもそのときに聞けるのは、可聴域に振動数を落とした音波であって、本来の超音波ではない。
 最近ノーベル賞で有名になったニュートリノにしても、あるのではないかということは人間特有の「意識」の力で理論的にはわかっていた。そこでスーパーカミオカンデという巨大な装置をつくり、ニュートリノと水分子の衝突の痕跡を機械でキャッチしてみると、たしかにニュートリノと考えられる非常に微小なものが飛来していたことが分かった。このようにしてわれわれはひとつの世界を構築する。
 ネコやイヌはまったくそのようなことは知らない。モノの存在を何か別のものに変えて証明することはできない。彼らの世界にはニュートリノというものは存在していない。ダニにとって森の樹木の葉擦れの音が存在しないのと同じである。
 人間は自分たちの環境の中にそのようなものがあることを知っている、というか頭の中で考えている。けれど現実の感覚としてわかっているということではまったくないので、それはある意味「現実」ではない。そして、現生人類になって5万年、現実ではないものの知識とその知識を作り出した論理の上に立って世界を構築し、宇宙の進化まで論じようとしている。
 p176−8
 人間の知覚にも生物種としての「枠」がある以上、現代科学にも多くのイリュージョンがあるのは当然である。たとえば動物の「種の保存」の問題。すべての動物は自分たちの種を保存するために生き、闘っているのだと考えられていた。本能と呼ばれる野生動物の精巧な行動の組み立ては、すべて種の存続のためだと信じられていた。
 しかし1960年代以降、インドのハヌマンヤセザルやアフリカのライオンで、他の群れからやってきたオスが元のボスの子供を全滅させるような子殺しが相次いで観察されることになった。オスのこのような行動は、種維持のためであるという当時の一般常識では理解できないものだった。さらに観察を進めると、似た現象が多くの動物で起こっていた。メスによる子殺しも珍しくないこともわかってきた。
 そうなると動物たちは種維持のために生き、努力しているとは考えられなくなった。動物たちは何を目指しているのか。
 いま主流の考え方は、それぞれの個体は、自分の血のつながった、すなわち自分の遺伝子を持った子供をたくさん後代に残すということだけをやっているのではないか、ということである。そのように考えれば、動物たちのやっていることは素直に理解できる。種保存という「崇高な」理念を動物たちに担ってもらわなくてもよいのである。「よりよく適応した個体はより多くの子孫を残すだろう。その結果よりよく適応した個体が増えて行き、その方向に進化が起きるだろう」というダーウィン進化論の根幹とも一致する。事実、子殺しが頻繁に起きる動物の群れであっても、全体の個体数が減ることはなかったのである。
 p182‐3
 こうした「利己的な遺伝子」の考え方もまた一つのイリュージョンであるかもしれない。しかしこのイリュージョンによってわれわれは新しい動物観に立って動物を見ることができるようになった。今日では、この「利己的な遺伝子」の解釈は動物ばかりでなく、植物にも当てはまるとされている。
 この考え方に込められているのは、進化には何の目的も、何の計画もないということである。生き残ることのできたものが生き残っているということ、それがすべてである。だから環境が変わると、その生存が難しくなり、恐竜(を任じている者)さえ、絶滅することもある。