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吉本隆明 『共同幻想論』(角川文庫)1/2

  わたしは恥ずかしながら吉本隆明は今まで読んだことがなかった。20代、何かの雑誌で読んだことはあるかもしれないが、「分かりにくい人だ」と思った記憶があるくらいで、それも二つ三つ、新聞の論壇記事だけを読んでのこころもとない印象だったと思う。
 『共同幻想論』は吉本隆明の代表作だ。が、とても難しい本だ。論題をひとことで言えば「人々の暮らしをかたちづくる風俗や法体系などは成員全体の共同の幻想である。だからその集合体である国家も国民が共同で作り上げた幻想である」ということだ。
 本書が出る10年ほど前には、吉本に「思想家というにはあまりに痩せこけた筋ばかりの人間だ」と「暴言」を吐かれている丸山真男がほとんど同じことをいろいろな論文で言っているし、今日でいえば常識に属することにすぎない。しかし50年前この本が出たときは、「国家」を問わずにはいられない大学紛争下の雰囲気もあって、ずいぶん話題になったことを憶えている。なにしろそのとき私は多分大学一年生だったのだ。
 内田樹は『街場の文体論』のなかで、対蹠的な立場にいる吉本隆明丸山真男を比べて、「二人は同じようなことを言っているのだが、文体だけを比べたら、吉本隆明のほうが読みやすい。詩人だから、文章がぴんと立っている。丸山真男政治学の先生だから、名文家ではない」と書いている。
 でも、本書を読んだ限りそれは違うのでは思った。詩人ならぬ内田の、文章が「ぴんと立っている」という修辞がどういうことを指すのかよく分からないが、『共同幻想論』のなかでは接続語の不適格さまたは省略とそれにともなう文意の不正確または不明瞭さが目立った。そんな箇所に遭遇すると、読む側が「文の中で欠落している」単語を補って読まなければならず、なかなかページが進まなかった。名文だと感服するものには一行も出会わなかった。

 「これが詩人の散文である」と言われればそれまでだが、論文として論理の精緻さを問われたときはどうなのだろう。わたしとしては丸山真男の、ドイツ観念論を徹底的に勉強したひとらしい、全体の理路とセンテンス内での論理を大切にする、日本語としては珍しいくらい複文構造のものが多い文章のほうがすんなりと頭に入った。
 わたしは大学に入ってから小林秀雄ポール・ヴァレリー丸山真男などを少しだけ読んできた頭のカタイ人間だ。吉本隆明とはまるで肌合いが違う人ばかりを読んできたわけだ。
 小林はモーツァルトランボーゴッホドストエフスキーなどの天才を相手にしながら、「宇宙は、かれらの皮膚に触れるほど近く傍らにあるが、何事も語りはしない。黙契は既に成り立っている。宇宙は、かれの自在な夢の確実な揺籃たるにすぎない(『モーツァルト』)」として、芸術を「歴史的に」解き明かそうとする「思想家」たちの恣意性を明晰な言葉で嗤った。ヴァレリーは、天才の核心に迫ることのできない美術史家などの口先人間を軽蔑することにかけて、さらに激しかった。
 いっぽう丸山は、そういった歴史思想どころか世界の中での自分の立ち位置さえ分析できなかった大日本帝国・戦争指導部の精神構造を、古事記以来の国史書や儒学書に繰り返し現れるアニミズム通奏低音の顕れであるとして、執拗なまでに弾劾した。
 小林やヴァレリーや丸山の、吉本と違う共通点は、三人がいずれも大衆(オルテガの言う平均人)とは遠いところで仕事をしたということである。このことについて、本書解題によれば、吉本は次のように率直に述べている。
 「僕はいつも学問という領域の外にありました。いってみれば、僕は非学問の場所から学問を見ることになっていると思います。非学問の場所の特色は、いつも「総合性」というものが潜在的な課題としてある場所だということです。もう一つは、そこはいつでも大衆的な現象、現実の文化現象にたえず接触して、そこから脅かされたり、波を受けたりする場所だということです。つまり現在性というものの現象的な波を絶えずかぶっている場所なのです。そういう場所からの意見だというのを前提においてくれないと、僕などが学問についてなにかいうのは馬鹿げているということになる・・・・・(『現代思想1984年4月号)」。
 吉本隆明が大学紛争のとき非常に人気があったということ、それなのにときどき何を言っているのかわからなかったこと、一昨年亡くなったとき新聞の追悼記事にも「矛盾する言動も多い複雑な思想家だった」と書かれていたことなども、上記の「いつでも大衆的な現象、現実の文化現象にたえず接触して、そこから脅かされたり、波を受けたりする場所」にいたことで説明できる。本書がわたしに難しかったのもこの理由によるのだろう。