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吉本隆明 『共同幻想論』(角川文庫)2/2

 詩人独特の断言口調で語られる本書には、教えられることも多かった。そのひとつに本書末尾の「起源論」がある。古事記に記された初期天皇群の和称の姓名と『魏志倭人伝』に記載された邪馬台国などの官名が一致していると指摘して、古事記編者たちが思い描ける「国家」の規模は邪馬台国時代のそれと大差なかったというものである。
 起源論 p241・260−2
 いまこころみに神武から応神まで『古事記』編者たちの勢力が、自分たちの直接の先祖に擬定した初期天皇群の和称の姓名をあげてみる。
 初代   神武   カムヤマトイハレヒコ
 二代   綏靖   カムヌカハミミ
 三代   安寧   シキツヒコタマテミ 
 ・・・・・・・・・
 十五代 応神   ホムタワケ
 これらの呼び名にはかならずしも定型があるわけではないが、たとえば『隋書倭国伝・開皇二十年』に「倭王あり、姓は阿毎(アマ)、字は多利思比孤(タラシヒコ)、阿輩雛弥と号す」とあるように、もし<アマタラシヒコ>という和称があったとすれば、<アマ>が姓であり<タラシヒコ>がアザ名であるとみなすことができる。
 神武のばあい<カムヤマト>が姓であり<イハレヒコ>が名であるが、<カムヤマト>などという取ってつけたような姓はありえないわけで、それは後になって<神>という概念と<倭>(ヤマト)という統一国家の呼称をつなぎあわせることで、神統であり同時に国主であることを示そうとして名づけられたものと考えられる。そして<イハレヒコ>の<イハレ>はおそらく地名であり、出身地を語るか支配地を語るかはわからないが、<イハ>なる地名に関係があると擬定された人物に違いない。
 こう考えてゆくと、初期天皇の和名は<ヒコ>、<ミミ>、<タマ>、<ワケ>などの字名の中心的な呼称として、その最も前(ときには後)に姓をつけ、直前(あるいは直後)はおそらく地名を冠しているのが一般的だと言えよう。
 ところが初期天皇群につけられた<ヒコ>、<ミミ>、<タマ>、<ワケ>などは、『魏志倭人伝』に記載された邪馬台国対馬国一支国、伊都国、奴国、不弥国、投馬国などの大官の名と一致するものが多いという事実がある。<ワケ>は対馬国一支国などの大官の名であり、<ミミ>は投馬国、<タマ>は不弥国の大官の名とされている。
 もちろん私(吉本)はこれらの初期天皇が『魏志倭人伝』を粉本にして創作されたと言いたいのではないし、どれかの国の支配者として実在したと言いたいのでもない。現在の段階ではこういうことを断定するのはどんな意味でも不可能である。ただ私は、初期天皇の名称から、その世襲的な宗教的王権の規模として、古事記編纂者たちはたかだか邪馬台国的な規模の<国家>しか想定していなかったことを言いたいだけである。