アクセス数:アクセスカウンター

横手慎二 『スターリン』(中公新書)2/2

 日本とスターリンが直接関係する出来事に1939年のノモンハンの戦いがある。スターリン個人の倫理観に帰せられる人民抑圧はヒトラーホロコーストと同様にいかなる意味でも正当化できない。が、あえて倫理と政治を切り離して考えてみれば、ノモンハン事件をテコにした独ソ不可侵条約の締結は彼の世界戦略感覚を象徴するあっぱれなものだった。
 p214−6
 ノモンハン事件は1939年5月初頭に起きた、(当時ソ連の衛星国となっていた)モンゴルと日本傀儡の満州国との国境をめぐる軍事的小競り合いが、その後拡大の一途をたどったものである。5月末までに日本軍に死者は150人を超えたが、ソ連も同様の状態だった。・・・・・(そのまま膠着状態が続いたが)8月になるとソ連は(伝説化されるほどではなかったらしいものの)大規模な機械化部隊を投入しはじめ、8月20日には日本の第23師団を壊滅状態に追い込んだ。(五味川純平『戦争と人間』など多くの作品に書かれているように)双方は死闘を繰り広げたが、日本軍よりも多くの人的損失を出しながらも、最後に戦場を支配したのはソ連だった。
 ソ連が死傷者2万を超えながらもここでの勝利にこだわったのは、スターリンの仮借ない指示があったからだと言われている。機械化部隊が日本軍に襲いかかる8月20日は、ソ連がドイツと不可侵条約を締結する三日前だった。いまソ連軍が極東の小さな国境線で日本軍に敗れれば、スターリンヒトラーに「ソ連怖れるに足らず」と見くびられ、当時喫緊の課題だった独ソ不可侵条約締結交渉が頓挫することは明らかだった。不可侵条約ができなければ、第二次世界大戦前にして欧州列強と肩を並べるための工業生産、国力増強の時間かせぎはとても間に合わなかった。
 そのヒトラーも、スターリンとの条約交渉をすすめるかたわら、英・仏とも「不戦」交渉を行って、二正面の「外交」交渉を同時進行させるという綱渡りの真っ最中だった。ヒトラーも、日本軍を破ったスターリンにあなどられれば、英・仏にもドイツの実力を軽視され、「当面の不戦」交渉が決裂することは明らかだった。外交交渉が失敗すれば来たるべき本当の戦争でも、先進工業国イギリス・フランスとスターリンソ連を相手にする二正面作戦を強いられるという恐怖に襲われていた。つまり極東でのノモンハンでの戦闘は、ヒトラーにとっても、ヨーロッパでの第二次世界大戦を、自国の戦争準備とからめていつから開始し、まずどこに侵入するかを決める重要な前哨戦になっていたのである。
 この推測を確からしく思わせることの一つに、8月19日つまりソ連機械化部隊が日本軍に襲いかかる前日には、スターリンはドイツ外相リッベンドロップの条約交渉のための訪ソを拒絶している事実がある。関東軍の激しい抵抗で日ソ双方とも同程度の戦力を失い、戦闘の帰趨がまったく見えていなかった8月19日の時点では、手ごわい交渉相手リッペンドロップは必ず強気の条件を持ち出し、スターリンとしてはそれをはねかえす自信がなかったのだ。
 ところがその数時間後、ソ連機械化部隊の勝利が見えてきた時刻には一転してリッペンドロップの訪ソを承認している。スターリンノモンハン勝利報告を受け、それでもってヒトラーに切るカードの有効性を確信したのだ。そしてヒトラーと不可侵条約を結ぶことは同時に、英・仏に「スターリンに出し抜かれた」と臍をかませることになった。英・仏はその後の対独交渉において、「ヒトラーの後ろにいるスターリンは傍観者を決め込み、背後からドイツを衝いてこないのでは」と疑心暗鬼に悩まされることになるのだった。
 人の悪い西洋人に慣れていない日本の指導者たちは、ドイツは日独防共協定を実直に順守し反ソ外交を進めるているものと、軍部・文民とも確信していた。だから独ソ不可侵条約締結にひどく狼狽した。平沼騏一郎内閣は直後に「欧州情勢は複雑怪奇なり」と、先進国政府としては素朴この上ない声明を出して総辞職し、日本外交の実力を世界的に有名にした。