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宮本常一 『庶民の発見』(講談社学術文庫)

 宮本常一は50巻を超える著作集をあの未来社から出している、批判をするのもはばかられる大民俗学者である。しかし私はどうも好きになれない。何に肌が合わないのだろうか。
 本書p21に、庶民あるいは農民を擁護する宮本の基本的立脚点を記した文章がある。
「世の人々は農民を固陋といい、頑迷というけれども、わたしは決してそう思っていない。今のような生産能力と社会制度では、今のように生きてゆくことがいちばん安全であり安定している。農民を頑迷といい封建的というならば、自ら理想とするところを農村という場において実践するだけの熱情と勇気と責任を持ってもらいたいと、わたしは農民を非難する人々にいつも要求したいのである。政治的な改革だけで村が新しく生まれ変わるだろうか。口さきだけの批判や、指導するなどといって手をつけてみても、すぐ投げ出すようでは村は新しくならない。」というものである。しかしながら、この100年、日本の村の暮らしを「革命的」に向上させたきっかけは、皮肉なことだがマッカーサーの農地解放命令という「政治的な改革」だったことは、否認しようのない事実である。

 赤ん坊や就学以前の子供を文句なくかわいいと感じる人がいる。ひと前で「子供は国の宝だ」と大きな声で言う人がいる。一方で、子供はまだ十分に人間ではないのだから、訓練しなければろくなものにはならないという人も一定の比率でいる。イザベラ・バードの「日本紀行」によれば、明治初期の日本において、子供の可愛がり方はイギリス上流夫人の彼女には異様に映ったようである。自身広島の中農の家に生まれ、「忘れられた人々」を生涯にわたって取り上げることで熱烈なファンを数多くつくった宮本常一は、言ってみれば小さな子供を文句なくかわいいと感じるタイプだったのだろう。
 著者「あとがき」によれば、宮本は自身が編集に携わった『風土記日本』に収められた『庶民の風土記を』のなかに、次のような一文を載せたらしい。何の変哲もない、当たり前ではないかというような文章だが、それを本書の中でわざわざもう一度書いているのは、宮本常一が、農民をその見聞の狭さや進取の気性の乏しさを取り上げる以前に、存在としてまるごと受け入れてしまう人であったからに違いない。
 「一般大衆は声をたてたがらない。だからいつも見過ごされ、見落とされる。しかし見落としてはいけないのである。古来、庶民に関する記録がないからといって、また事件がないからといって、平穏無事だったのではない。営々と働き、その爪跡は文字に残さなくても、集落に、耕地に、港に、道に、あらゆるものに刻みつけられている。人手の加わらない自然は、雄大であってもさびしいものである。わたしは自然に加えた人間の愛情の中から、庶民の歴史を嗅ぎわけたいと感じている。」

 その同じ「あとがき」によれば、本書の初版が出た1961年、新聞の書評で「所詮これは百姓の言い分から一歩も出ていないのではないか」と書かれたらしい。宮本の、「わたしが文化人にならなければならない理由は何もない」という反論は彼としては当然の言い方なのだろう。
 がしかし、福井県の田んぼの真ん中で子供時代を過ごした私には、彼の論理はいささか空しい。宮本は農民の生活について該博な知識を持つにもかかわらず、たとえば、本書執筆当時に大きな力を発揮し始めていた農協が猛毒農薬の散布指導をしていることなどには、なんら踏み込んだ発言をしていない。ただ「人手の加わった自然には、どこかあたたかさがあり、なつかしさがある」というようなことだけを各地で「営々と」語り続けていた。宮本は本書冒頭に「自分はたいへんなおしゃべりである」と書いている。まさか本当に語りの名人だっただけの人とは思いたくないのだが・・・・。

 同じ民俗学の視点に立ちながら、一つ一つの昔話や民話からスケールの大きな「日本学」を構想した柳田国男に対し、宮本常一は貧農や差別された人々の事例紹介にあくまでこだわった。そして読者が、その事例紹介から貧しさや差別の因果関係の鋭い分析を読み取ろうとするのは無駄な努力である。宮本は柳田学派から蔑視、冷遇されたといわれるが、本書を含め宮本の著作のどこにも、現代庶民の心性の淵源を掘り出そうとする姿勢が見られないのでは、柳田学派に蔑視されたのは仕方がないかもしれない。