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三木成夫 『胎児の世界』(中公新書)

 個体発生は系統発生をくりかえすという。人間の胎児にあっては受胎の日から30日を過ぎてからの一週間がこの「系統発生再現」の時期らしい。たった一週間で、あの一億年を費やした脊椎動物の歴史が早送りされる。その模様が息を呑むようなリアリズムで述べられている。
 p62
 わたしたちは母胎の中で、いわゆる十月十日の間、羊水に漬かって過ごす。羊水は胎児であるわたしたちの口のなかはもちろん、鼻、耳などおよそ外に通じるすべての孔に入り込み、身体の内外をくまなく潤い尽くす。
 ・・・・・・それだけではない。小さな胎児は喉を鳴らしてこれを思い切り飲み込む。・・・・こうして羊水は、胎児の食道から胃袋までをくまなく浸し、胃の幽門を越えて腸の全長におよぶ。そこで何がしかが吸収されるのであろう。胎児尿は当然たれ流しなのだから、ここでは胎児の体自体が羊水循環の毛細管の役目を果たしていることになる。・・・・・・
 まだある。胎児はなんと、この液体を胸いっぱいに吸い込むのだ。羊水はその小さな肺の袋に流れ込む。感覚的に理解できないことだが事実である。もちろん吸うだけではない。当然、それを吐く。胎児のこの「羊水呼吸」は出産の日まで続けられる。(もちろん胎児は臍の緒を介して血液のガス交換を行うので、いわゆる「呼吸」は必要ないのだが。)・・・・・・
 出産のときにこの羊水は、最初に勢いよく吸い込まれた空気に押されてたちまち両肺の周辺部に散らばり、一種の無菌性肺炎の状態になるが、これは約一ヵ月で血中に吸収される。
 図9は、古生代中生代新生代の代表的生物種の受精卵を系統的に並べたもの。上は、水中に産み落とされる魚類と両生類の卵。中は、陸上に産み落とされる爬虫類と鳥類の卵。下は、子宮に着床する哺乳類の卵。海水、海水由来の羊水の中で発生するという意味で、私たちと魚類が一続きであることがよく分かる。







 以下は受胎後30日から40日までの人間の胎児を著者が顕微鏡写生したもの。
 p107−16
 図18は32日目の胎児の頭部顔面の正面。体長は小豆粒大。わたしたちの祖先はこのとおり鰓をもった魚だったのだ。
 図の右下にあるのは胎児の左手。一見して魚の鰭である。サリドマイドに冒された胎児はこの形がただ大きくなったまま出産に至ったといえる。











 



 図19は34日目。たった二日でにわかに一つのまとまったものが現われる。しかし人間の顔というにはあまりにも厳しい。目はまだま横を向いている。手は親指と人差し指の間にほんの僅かのくびれが現われる。













 







 図20はさらに二日後の36日。体長わずか13mm。まさに一つの表情を持った顔が黙ってこちらを向いている。なんという「爬虫類」を思わせるすごい表情。あのま横に向いていた瞳はこちらを向き始めている。膨れ上がり始めた大脳半球の額が目鼻にのしかかってくる。人類で急発達した前頭葉の始まりだ。左右の上あごは中央に深い切れ込みが残り、発生学的に古い祖先の兎唇の形をとどめている。手の指には五角形が明らかに萌している。









 






 図21はさらに二日後の38日。さきの爬虫類からかなり哺乳類に近づいていることは明らかだろう。目はほとんどま正面を向いている。上あごの兎唇は消え、下あごが強力に発達している。



























 図22は40日目。体長20mm。ここにはもはや人と呼んでさしつかえない顔がある。こんなおもかげは、街を歩けばいくらでもお目にかかれるだろう。








 

 

 著者・三木成夫氏は発生生物学者である。動物の受精卵やさまざまな発生段階にある「胎児」の解剖に天才的な手技を示した解剖学者でもある。数億年の系統発生を、子宮着床30日後の「胎児」がたった一週間のあいだに「再現」することを、著者は「まえがき」のなかで、「悠久のドラマの瞬時のパントマイム」であり、「生命の記憶」であると書いている。その一週間の胎児たちは、「あたかも生命の誕生とその進化をそらんじているかのごとく」、「劫初以来の生命記憶」を再現しているかのようであると。
 この本の目次を拾うと、柳田国男『海上の道』のモチーフにもなった「椰子の実」の記憶、羊水と古代海水の成分の話、いのちの塩、いのちの波、内臓波動、万物流転、永遠周行、東洋の「道」、伊勢神宮遷宮周期と人間の生殖年齢の一致・・・・・といった内容が目につく。受精卵からすべての器官が「いつのまにか」発生し、太古の祖先のたどった過程をトレースしながらより「高等な」生物に育っていくことを何十年にもわたって顕微鏡の下で見続ければ、その人が目次の言葉に表徴される東洋的宇宙概念に深く領されるのももっともである。
 発生学について予備知識のない読者が、ふらっと立ち寄った書店で、(受胎後一ヵ月の中絶胎児の首をメスで刎ねるといった中身を読む前に)目次だけを眺めるとする。すると、この本は神道新興宗教創始者が書いた「いのちの書」であると、勘違いするかもしれない。少なくとも本書後半三分の一にはそのような雰囲気がある。