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花田清輝 『復興期の精神』(講談社文芸文庫)3/3

 花田清輝は20世紀日本最大の批評家のひとりだと思う。花田はその途方もない知力によって、小児病的文壇人、厚顔無恥デマゴーグ、蛸壺にひそむ「専門家」群を笑いとばした。そうした不羈の精神を臆するところなく公言したものにギリシアの喜劇作家アリストファネスを扱った『笑う男』がある。
 アリストファネスとは、本書前半のコペルニクスとまったく同じように花田清輝その人のことである。この本にはダンテ、ダ・ヴィンチマキャヴェリ、ポー、ガロア、トマス・モア、ゴッホ、ゴーガンなど実に多くのヨーロッパ人が登場し、彼らの仕事を通して「転形期の人間」が語られるが、これらの人物は全員、戦争直後を食うや食わずで敵を蹴散らしながら生きようとした仮面の花田清輝である。

 p242 笑う男
 ディオニソスヘラクレスやゼウスまで、十把ひとからげにして弾劾するアリストファネスの性格を明らかにするために、何も頭をひねることはない。それは、彼が庶民の立場を代表し、無告の代弁者だったからだ。庶民の立場を代表するものの知性は、必ず庶民の知性とは比較にならない大きな振幅を持っていなければならず、ソクラテスの知性とともにゴルギアスの知性も自らのうちに持ち、自然科学の問題と形而上学の問題に――解決可能な問題とともに、解決不能な問題にも通暁していなければならない。そうして初めて彼は「庶民的」であるのであり、あらゆる偏向とたたかい、熱に浮かされた小児病患者を一撃で粉砕し、老獪なデマゴーグを堂々と笑殺することができるのだ。
 アリストファネスは、「庶民の指導者」をもって任じている彼の敵手たちよりもはるかに尖鋭な理知の所有者であった。だからこそ彼には絶対不敗の信念があったのであり、アテネの一流人物に対して綽綽たる余裕をもって行われた彼の攻撃が、つねに喜劇的表現をとったことに不思議はなにもない。
 ・・・・・アリストファネスはまた、男女の間のいつ果てるともしれない愛と憎しみの戦いにおいては、憎しみの側(つまり男の側)の旗色がつねにいくらか悪いのではないかということもよく知っていた。なぜというに、今のところ人間は依然として増え続けているからだ。この事実をよく知っていたアリストファネスは、いつもギリシアの女たちを嘲り続けていたが、そうした女の欠点があるからといって男たちの女たちへの欲望が、増しこそすれ減るものではないことも無論承知していた。『リュシストラテー』において、ペロポネソス戦争を中止しない限り一緒に寝てやらないと宣言し、全ギリシアの女たちがアテネ側もスパルタ側も仲良く合流して、男たちに対してアクロポリスの山頂にたてこもるところを書いたゆえんである。禁欲の苦痛に耐えかね、男たちは戦争どころではなくなり、たちまち平和条約が締結される。
 戦争や革命のブレーキには、知性のみならず愛情もまた大いに役立つ。ブレーキとは二つのものの摩擦を利用して障害を克服するための道具のことだ。太平洋戦争も終わりに近づいたころ、資材不足のため、我々の戦争指導者たちはブレーキなしの自動車の製造を命じたものだ。もちろん我々の国は、すべての女たちが仲良く合流して戦争を中止しない限り一緒に寝てやらないと宣言し、男たちに対して富士山頂にたてこもるなどという「愛情」の伝統はない国であった。