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養老孟司 『大言論 Ⅲ 大切なことは言葉にならない』(新潮社)

 国家も新聞も「約束事」の言葉の上に成り立つ
 2008年から2010年まで季刊誌『考える人』に連載されたものをまとめたもので、『大言論』というおふざけタイトルの付いたシリーズの最終巻。養老さんは初出の最終稿を書いていたとき72歳になっていた。いろいろなことが、日本の世間の中で考え、書くということを含めて、ずいぶんイヤになっていたようだ。そのせいだろう、この『大言論 Ⅲ 大切なことは言葉にならない』にはずいぶん投げやり感のある苛立った文章もある。ことし77歳になられるとしたら、仕方のないことだ。
 p110・112
 通常人々は、国家は虚構だという見方を「ただの理屈」とし、実際には採用しない。それは当然である。だって税金は逃れられないし、法に違反すれば逮捕される。官僚にとって国家は給与の源泉だから「実在」するしかない。それが官僚個人の感情のレベルまでしみついていることは、酒の席で私が「国家は約束事だ」と発言をしたときに、現役官僚と本当の喧嘩になったから、よく分かっている。
 官僚は「国家は実在だ」と信じているが、では憲法九条はどうなのか。「陸海空軍その他の戦力はこれを保持しない。国の交戦権はこれを認めない」と明文にしてあるのだから、これは自衛権は別だとか、国連憲章はどうだとかの「解釈」は入るべき余地がない「実在」である。
 それに対して自衛隊は軍隊ではないとか、自衛権国連が認めているだとかの議論は、(私が嫌いな)共産党を除く全政党と国民の多数が実在に仕上げようとしている「約束事」以外の何なのだろう。それをまったく逆に考えようとして、共産党を除く全政党と国民の多数は、九条こそ戦後の混乱期に短慮なアメリカに押し付けられた不平等な約束事だとしているだけである。
 話しは少し飛ぶが『アンナ・カレーニナ』では、はじめの方が強く私の記憶に残っている。アンナの兄は官僚だったが、本気でその仕事をしていなかったから出世した。トルストイはそう書いていた。若いときにこの文章を読み、あの大著のほかの部分は忘れてしまったが、そこだけは生涯の記憶として残った。
 新聞社に未来はないそうである。ある(朝日)新聞社の人に「本業は何ですか」と率直な質問をしてみたら、「ウチは不動産業ですな」という(本音の?)回答が返ってきたことがある。朝日新聞がこの秋ああなる前の話だ。)そうなると本来の仕事自身は腐る。アンナの兄と同じように、新聞人としての仕事は本気でしなくなる。そして、本気でその仕事をしなくなる方が不思議なことに出世する。国家は本当に実在するのかとか、憲法九条は本当に約束事なのかとか、約束事の空論ならそこから現実性を導き出す議論はできないのか、といった「考える人」としての仕事をしない方が売れる新聞が作れるようになるわけである。

 p178・184
 わたしはよく理屈は言うが、それを信じているわけではない。あれこれ書くことができるのは、あれこれ考えるからで、あれこれ考えるということは、要するにどれも大して信じていないということである。今回は理性を信じ、次は虫を信じ、別なときは常識を信じ、というふうに小さな信仰の対象が変化するだけである。実際に生きているとはそういうことではないのか。私はイスラム原理主義であれ、ブッシュの福音原理主義であれ、科学原理主義であれ、「意識」だけに目を向ける原理主義が嫌いだが、かといって反原理主義という原理主義者でもない。だって、だれだって一生の三分の一はその大事な「意識」がないんですから。その無意識状態で何が行われているか、誰もまだまだ分かっていないのですから。寝ている間も原理主義だというひとが、はたしているんだろうか。
 概念というのが意識の産物だというのはだれも異存がないだろう。ということは「概念」というものにもともとなじみが薄い日本人に「意識」を考えることは難しかっただろう。そのかわり、逆に感覚で捉えることは得意だった。だから世界は無限に多様、「へっつい」にも神はいるし、虫にさえ五分の魂があるのである。この点、一神教が人間絶対中心主義であるのは、大変よくつじつまが合っている。
 虫好きの私としては、それではあまり面白くないが、これも仕方がないであろう。幸いなことに、寿命もさして長く残っているわけではない。世界がどうなろうと知ったことではない。