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加藤典洋 『人類が永遠に続くのではないとしたら』(新潮社)2/2

 p102
 1986年に起きたチェルノブイリ原発事故の被害額は20兆円だったといわれている。チェルノブイリは一基の原子炉の事故だが、福島第一は四基の事故であり、人的被害を除いた場合これ以上の損害が生じていることは確実である。
 単純に、福島第一は四基だから一基のチェルノブイリの4倍だとしてみよう。すると80兆円である。この80兆円が「責任をとりきれない世界」の弁済額である。 「無‐責任」世界の民間保険会社は当然支払わないが、使ってしまったお金は誰かが弁済しなければならないのだから、とどのつまり日本の国民がみんなで支払わなければならない。赤ん坊から超高齢者までみんな含めて一人当たり66万円という巨額である。税金という形で、年金という形で、全国民がみんな持って行かれる。
 3.11まで原子力発電所は、「これ以上安全な産業施設はない」とさんざん言われてきた。1965年に東海村原発が動き出して以来、福島の3.11事故まで、46年間に「レベル3」以上の事故が3回起きているのは、まあいいとしよう。官僚の説明というのはそういうものだ。わたしたちの身の回りに、「責任」をとりきれない世界――無‐責任の世界――があることもまあいいとしよう。こんな大きな世界の話でなくても、人間関係といったみみっちいことでも、「責任」をとりきれないことはいっぱいある。ただしかし、そのことが「分かっていながら」、「無‐責任の巨大産業世界の制度」からふたたび襲われるのだけは御免こうむりたい。家族とささやかな旅行をするとき、この観光バスは無保険であるとわかっていながら乗りたい人はだれもいないだろう。

 この本には、誰も責任をとれない状態で稼働させようとする原子力発電の危うさだけが書いてあるのではない。ヘーゲルホッブスハイデッガーから、ボードリヤールなど普通の読者にはなじみの薄いフランス・ポストモダンの経済・社会学者まで、多くの学者が登場する。日本の学者でも吉本隆明、中沢真一、見田宗介など、理解が容易とはいえない人たちの学説が紹介される。社会の「全体理論」、記号消費、産業発達の「自然並行史的解釈」、リスクに対処する「贈与」と「弱い欲望」など、サラサラとは読み進めない概念が頻出する。
 この本を半分ほど読んでいくと、著者自身が3.11後の日本産業社会をどう修正していくかについて、右に左に悩みぬいているのがよくわかる。加藤典洋自身がはじめは反原発運動に疑いの目を向けていたことを告白している。この運動の一部にあるご都合主義ともいえる「軽さ」に違和感を持ったのが大きいようだが、近代の巨大産業の驀進する力はとどめようがないのではないかというニヒリズムもあったように思われる。最終的に加藤典洋は、近代の工学をもっとも基礎のところで支えるフィードバック理論にリスク社会への対処を見出そうとするのだが、その悩みが400ページの全体によく表れている。だから読者は一本の主題に貫かれた論文を読むようにこの本を通読するのは、難しい。
 加藤典洋は全身全霊で悩みつつこの本を書いたのだが、その加藤を励ましたのは、加藤が好まない(いろいろな現実事態をオシャレにするっと否定し去る)ポストモダン論者のなかにあって、柄谷行人だけが例外的に率直に述べた次の一文らしい。わたしも、いつもは言っていることがよく分からない柄谷行人だが、これは間違いなく感動的な文章だと思う。
 p64−5
 「1989年(のベルリンの壁崩壊)に至るまで、私は未来の理念を軽蔑していた。資本と国家への闘争は、未来の理念なしにも可能であり、現実に生じる矛盾に即して闘争をエンドレスに続けるほかない、と考えていた。しかし、89年以後に私は変わった。それまで、私は旧来のマルクス主義政党や国家に批判的であったが、その批判は、旧来のマルクス主義政党や国家が強固に存在しつづけるということを前提にしていた。彼らが存続し続けるかぎり、たんに否定的であるだけで、何かをやった気になれたのである。彼らが崩壊したとき、私は逆説的に彼らに依存していたことに気付いた。私はなにか積極的なことを言わなければならないと感じ始めた。私がカントについて考え始めたのは、ほんとうはその時からである。」つまり、原発が崩壊したときにはじめて加藤典洋原発に依存していたことに気付いたということである。わたしが気付いたのはその3年半後だった。